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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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三成の実像1978 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」43
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月26日条には、次のような記載があります。  「佐和山城へ石田三成が帰陣して退却した、ということである。岐阜の城に雑説がある。鉄炮・玉薬(この『鐵放・玉藥』の記載は塗抹されている)(以下の文も塗抹されている)」と。  家康方に知られては都合の悪いことは、関ヶ原の戦... ...続きを見る

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2017/07/23 09:47
三成の実像1977 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」42
 昨日は祇園祭の宵山に行ってきましたが、フェイスブックの方で、写真を掲載して、その報告をし始めています。 よかっから、覗いてみてください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem  さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日... ...続きを見る

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2017/07/22 10:42
石田三成の実像1976  中野等氏「石田三成伝」54 奥州仕置5 再下向
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州で一揆が勃発したことによって、三成が奥州へ再下向したことを示すものとして、「天正年中日々記」の天正18年12月26日条に次のような記載があることが挙げられています。  「島津義弘様御上洛。火急のこととて東国で一揆が勃発し、豊臣秀次殿・石田三成殿・増田長盛殿が出立されたことを聞かれ、御立ちになった。この日は大雪である」  悪天候の中、出立したことがうかかがえますが、前日の25日付の秀吉朱印状に、「三成は佐竹勢とともに『相馬口』の担当を命じられ... ...続きを見る

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2017/07/21 10:16
三成の実像1975 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」41
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月24日条には、次のような記載があります。  「丹後は一城(細川幽斎が城主の田辺城)(だけ)になった、ということである」と。  丹後田辺城についての記載は、前述したように、「時慶記」の8月15日条と17日条に、田辺城の和睦のことが記されていました。特に15日条には... ...続きを見る

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2017/07/20 10:14
三成の実像1974 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」40
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月22日条には、伊勢松坂城を攻めているということが記されていることは前述しました。  豊臣公儀方の伊勢方面軍の動きについて、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)には、次のような記載があります。  「8月12日頃、ようやく秀元は伊勢方面へ出発し、15日には近江の土... ...続きを見る

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2017/07/19 10:03
三成の実像1973 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」39
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月22日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。伊勢松坂城を京衆(豊臣公儀の軍勢)として攻めている、ということである。(伊勢松坂城の)城主は古田重勝である」と。  豊臣公儀方の伊勢口方面軍の動きについては、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(N... ...続きを見る

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2017/07/18 10:16
三成の実像1972 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」38
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月21日条には、次のような記載があります。  「織田信雄は尾張国を本国として(秀頼から)返され遣わす、とのことである。中院通勝・富小路秀直・八条宮智仁親王の(侍臣)大石甚介が、丹後国の拵(和睦)のことについて、大坂(城)の前田玄以のところへ行った、ということである」... ...続きを見る

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2017/07/17 10:34
三成の実像1971 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」37
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の、秀吉の3回忌に当たる8月18日条には、次のような記載があります。  「豊国大明神の祭礼。豊国社の結縁灌頂を内々に執行するつもりであったが、天下は物騒なので、そのことはなく無念である」と。  ここでも「天下は物騒」という言い方がされており、特別な祭礼は行われなかった... ...続きを見る

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2017/07/16 10:04
三成の実像1970 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」36
 拙ブログでは、最近専ら、三成のことばかりを取り上げていますが、フェイスブックの方では、最近行ったところの写真も含めていろいろなことに触れてします(昨日は祇園祭の山鉾を見に行きました)ので、よろしければ、そちらの方もご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/07/15 10:58
石田三成の実像1969  中野等氏「石田三成伝」53 奥州仕置4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州仕置に関して、三成の家臣が発している「札」が取り上げられています。すなわち、天正18年(1590)9月15日付で増田長盛の奉行の永原平左衛門尉と山中藤太及び三成の奉行の滝本太郎左衛門尉が出したもので、この「札」について、中野氏は「『田中郷三ヶ村』に対する大山義景の支配を増田長盛と石田三成の奉行が認めたことを周知させるものと言え」、「こうした『札』発給の前提には、この地域の支配をめぐる紛争が想定され、増田長盛と三成の家臣がそこに裁定を下した」と解説... ...続きを見る

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2017/07/14 21:54
石田三成の実像1968 中野等氏「石田三成伝」52 奥州仕置3 岩城領検地2 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、岩城領の検地の結果、9月29日付で三成が岩城家中に発した書状が、取り上げられています。その書状についての中野氏の解説は次の通りです。  「岩城領検地の結果、知行地として認められるのは、事前に給人が指出(さしだし)として申請した高(たか)に限られ、秀吉の指示としてそれを越える出自の分は、能化丸の蔵入地として処理される。ただし、今年は暫定措置として、給人は本知高の三分の一にあたる年貢米を蔵入分として差し出すべきとする。納める期限の十月を過ぎると、差し出... ...続きを見る

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2017/07/13 10:25
石田三成の実像1967 中野等氏「石田三成伝」51 奥州仕置3 岩城領検地1 岩城家への「覚」
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年(1590)8月16日付で岩城家中の白土(しらど)摂津守・好雪斎岡本顕逸(良哲)に充てて、増田長盛と三成が発した「覚」が取り上げられています。  この「覚」について中野氏の解説は次のようなものです。  「三成と増田長盛は、岩城家執政の両名に充て、岩城家のとるべき基本政策を提示した。蔵入地と給人知行は、常隆時代のままとし、蔵入地の支配にあたる代官衆には、所務算用の適正・明瞭化を促している。三ヵ条目の規定は、能化丸が佐竹家の出身であることに... ...続きを見る

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2017/07/12 11:22
石田三成の実像1966 中野等氏「石田三成伝」50 奥州仕置2 石川義宗宛書状 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年の石川義宗(次郎)宛の長谷川秀一・石田三成連署状が取り上げられています。義宗は、「陸奥石川郡の領主石川昭光の子」です。この連署状は、「収納年貢の三分の二を差し押さえ」ることを伝えるもので、こういう指示を記した秀吉朱印状の写が添えられていることが、この連署状の記載からわかります。  また人質のことについても、この連署状には記されています。すなわち、「そなたが母親を人質として白川へ差し送られるとの事、尤もに思う」「「もう一度、浅野長吉(浅弾少... ...続きを見る

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2017/07/11 10:15
石田三成の実像1965 中野等氏「石田三成伝」49 奥州仕置1 御制札御判銭控 
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年8月日付欠の三成宛の「御制札御判銭控」が記された秀吉朱印状が取り上げられています。  この書状の内容について、中野氏の解説は次の通りです。  「秀吉の軍勢に恭順する村々は、その姿勢を明確にするため、秀吉方の発する制札・禁制を、応分の費用を負担して入手しなければならない。この『御制札御判銭控』は、いわばその料金を公定したものである。対象となる在所は、その村位によって上・中・下に等級分けされ、判銭の拠出を命じられる。秀吉みずからが三成に対... ...続きを見る

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2017/07/10 10:22
石田三成の実像1964 中野等氏「石田三成伝」48 岩城家の相続問題
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成は忍城を天正18年(1590)7月16日に開城させた後、25日には宇都宮にいたことが指摘されています。すなわち、この日、「鹿島社の大宮司則興に社領において乱妨狼藉を行なう者は罪科に処す旨の文書を手交する」と。秀吉が宇都宮に着いたのは、7月26日のことですから、三成は先に着いていたことになりますが、中野氏の同書では、「三成は、北上する秀吉の本隊に合流し」たと記されています。  岩城家の相続問題に関しても、三成が関わっていたことが中野氏の同書で述べ... ...続きを見る

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2017/07/09 11:18
三成の実像1963 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」34
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月14日条には、次のような記載があります。  「西洞院時慶に対して、前田玄以からは返書があったが、増田長盛からは取り紛れのため一報はない。西洞院時慶から安国寺恵瓊へ書状を遣わす」と。  ここでも恵瓊の名が出てきていますが、恵瓊はやはり「時慶記」に記載がある8月11日から... ...続きを見る

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2017/07/08 10:59
三成の実像1962 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」33
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月11日条には次のような記載があります。  「西洞院時慶から豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛へ祖神への祈念の祓礼を遣わした。西洞院時慶から前田玄以・安国寺恵瓊等へ書状を遣わした」と。  この記載について、白峰氏の解説は次の通りです。  「このことから8月11日の... ...続きを見る

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2017/07/07 11:01
三成の実像1961 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」32
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月10日条には次のような記載があります。  「大坂城の火事消除の祈祷のことを(秀頼から義演に対して)命じられ、施物として黄金10両を賜った」と。  「義演准后日記」の8月11日条には、引き続いて次のような記載があります。  「義演の大坂(城)の火災(消除)の祈祷... ...続きを見る

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2017/07/06 10:23
三成の実像1960 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」31
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の8月8日条には次のような記載があります。  「夜番を申し付けた。(その理由は)この度は世上が物騒なためである」と。  この時期、京、大坂の町の様子は落ち着いていましたが、豊臣公儀方の諸将は、それぞれの方面に出陣しようとしており、実際、同日付の「義演准后日記」には大聖寺城... ...続きを見る

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2017/07/05 10:09
三成の実像1959 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」30
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月7日条には次のような記載があります。  「豊臣秀頼の御所御祈りとして、大般若経の真読を来る(8月)10日より執行すべき旨の御使い(義演のところへ来た)。(これは)天下静謐、(秀頼の)御武運長久の(ための)御祈りである」と。  この記載についての、白峰氏の解説は次... ...続きを見る

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2017/07/04 10:02

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