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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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三成の実像2118 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」94
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の11月14日条には、次のような記載があります。  「山科言経が冷泉為満と共に、(大坂城の)家康のところへ行き、雑談をした。次に幸若舞を見た。戌の下刻(午後9時頃)に帰宅した」と。  この記載に関することについては、拙ブログで前述しました。  「時慶記」の同日条には、「... ...続きを見る

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2017/12/11 11:17
三成の実像2117 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」93
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「中臣祐範記」の11月11日条には、次のような記載があります。  「この度、家康が(上杉討伐のために)東国へ下向したあと、各々が謀反をして、尾州(尾張)・濃州(美濃)にて数度合戦に及び、上方衆が敗北した。(そして)家康が天下を補佐することになった。(大和国を拝領していた)増田長盛は高野... ...続きを見る

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2017/12/10 10:22
三成の実像2116 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」92
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の11月3日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。家康は近日(中に)参内する、ということである。もっとも、珍重である」と。  もっとも、家康が参内したのは、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井讓治氏編『織豊期主... ...続きを見る

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2017/12/09 10:45
三成の実像2115 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」91
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の11月2日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。安芸の毛利輝元は広島の城へ帰った旨、大坂あたりでは風聞がある、ということである。朽木元綱は本領に異儀がない、ということである」と。  毛利輝元が、広島城を拝領したというのは、前述したように... ...続きを見る

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2017/12/08 15:52
三成の実像2114 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」90
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の10月20日条には、次のような記載があります。  「前田玄以が天野(山金剛寺)から大坂へ出た、ということである」と。 前田玄以は奉行職は解かれましたが、丹波亀山城五万石は安堵されました。五奉行制は、浅野長政・石田三成の蟄居の後、三奉行になりましたが、政権運営は... ...続きを見る

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2017/12/07 21:02
三成の実像2113 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」89
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の10月16日条には、「大坂へ前田玄以を見舞うために、西洞院時慶は板屋左近丞を遣わした」という記載があります。  同日記の翌日条には、これに関連して、次のような記載があります。  「(前田玄以を見舞うために西洞院時慶が大坂へ遣わした)板屋左近丞が大坂から上洛し、前田玄以の返... ...続きを見る

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2017/12/06 11:12
三成の実像2112 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」88
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の10月14日条には、「(前文省略)この度の一乱(後文省略)」という記載があります。  「乱」という表現は、前述したように、すでに同日記の9月19日条に、「およそ建武(の新政)・応仁(の乱)の大兵乱もこれに及ぶはずがないのではないか」と記されていました。  関ヶ原の戦... ...続きを見る

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2017/12/05 10:33
三成の実像2111 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」87
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の10月6日条には、「小早川秀秋について雑説がある」と記されています。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「この記載における『雑説』が具体的に何を指すのかは不明である」と。  前述したように、同日記の9月17日条には、小早川の裏切り(手返)について触れて... ...続きを見る

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2017/12/04 10:21
三成の実像2110 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」86
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の10月3日条には、長束正家について次のような記載があります。  「長束正家が近江において切腹し、その首は三條橋前において梟首にされた、という風聞である」と。  「風聞」ですから、孝亮自身が直接目にしたわけではありませんが、事実だと思われます。長束正家の首がさらされた... ...続きを見る

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2017/12/03 10:31
三成の実像2109 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」85
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の10月2日条には、三成らの処刑について次のような記載があります。  「石田三成・安国寺恵瓊・小西行長などの首が、三條橋下において梟首にされた、ということである」と。  三成らの首が三條橋において梟首にされたという記述は、前述したように、各日記の10月1日条にありまし... ...続きを見る

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2017/12/02 12:31
三成の実像2108 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」8  通説や俗説を否定 
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、八丈島の秀家のもとに前田家から一年ごとに米や金子などを送ったという通説について、「誤った理解」だと指摘されています。この通説に基づいた取り上げ方が、「歴史秘話ヒストリア 愛したのはあなただけ〜戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫〜愛したのはあなただけ〜戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫〜 」でもされていました。  大西氏の同書では、利家の曽孫である前田綱紀(つなのり)の時代に絞って、同時代史料を確認し、「送品の周期は、毎年の場... ...続きを見る

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2017/12/01 11:02
三成の実像2107 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」7 豊国社参拝は上杉攻めの戦勝祈願
 慶長5年(1600)7月5日に宇喜多秀家は豊国社に参拝していますが、このことについて、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、次のように記されています。  秀家は「7月5日、秀吉を祀る今日の豊国社(京都市東山区)において『神馬立(じんめだて)』の神事を執りおこない、同月7日には南御方が同じく豊国社で湯立神楽(ゆだてかぐら)を奉納している(『舜旧記』)。いずれも、上杉討伐への出陣に先立っての戦勝祈願であろうか。  ところが、7月15日以前に、秀家は徳川討伐を画... ...続きを見る

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2017/11/30 10:59
三成の実像2106 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」84
三成の実像2106 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」84    写真は桃山御陵(明治天皇陵)の敷地の中にある治部池を柵越しに昨日撮ったものです。写真では、木の向こう側にある池ははっきり見えませんが、肉眼でははっきり確認できます(オンライン三成会編『三成伝説』【サンライズ出版】にも掲載しています)。柵の向こう側は、かつては伏見城の城内であり、治部池は堀跡です。北側(写真では左側)には、長束大蔵郭があり、南側には石田治部少輔郭がありました。長束大蔵郭は長束正家が、石田治部少輔郭は石田三成が政務を執っていた場所です。  昨日は三時間ほどかけて、治部池、伏見... ...続きを見る

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2017/11/28 18:51
三成の実像2105 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」83
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の10月1日条には、三成らの処刑について次のような記載があります。  「舜旧記」には、「この度の謀反人衆3人である石田三成・安国寺恵瓊・小西行長が洛中の大路を越えて、六条河原において首を刎ねられ、三条橋へ梟首にされた。次いで、長束正家も梟首にされた」と。  三成らが「謀反人」に... ...続きを見る

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2017/11/27 10:41
三成の実像2104 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」82
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月29日条には、次のような記載があります。  「近衛信尹が大坂へ下向し、西洞院時慶からの言伝てにより平野(神社)の御祓(の御礼)を家康へ献上した」と。  これも公家たちの家康への気遣いがうかがえる内容ですが、家康は豊臣政権の大老に復帰した形ですから、公家たちが豊臣政権を重... ...続きを見る

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2017/11/26 11:29
三成の実像2103 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」6 豊国社への寄進・豪姫との音信
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、八丈島での秀家の史料として、次のことも記されています。  「元和4年(1618)8月17日には、秀吉の命日(8月18日)に合わせて、『備前浮田殿』が豊国社に灯明料百疋【とうみょうりょうひゃっぴき】を贈っている(『舜旧記』)。この『備前浮田殿』が秀家自身であるとすれば、八丈島にありながら、秀家は依然、旧知の人々や寺社との音信を続けていた可能性が出てくる」と。  この時点では、豊臣家はすでに滅亡していましたが、秀家は秀吉の... ...続きを見る

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2017/11/25 10:22
石田三成の実像2102 大西泰正氏「【実像に迫る】宇喜多秀家」5 八丈島での和歌2 復権を諦めず
 八丈島で詠んだ秀家の和歌については、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の口絵の中で取り上げられている以外に、大阪城天守閣発行の図録「特別展 戦国の女たち」に、岡山の二若家所蔵の「宇喜多秀家自筆和歌懐紙」が掲載されています。その和歌は「武蔵野は 行どもあきの 終そなき いかなる風か すべに吹くらん」というものです。その解説には次のように記されています。  「(前略)表具の裏には三枚の貼紙があり、中央の一枚には『宇喜田(多)中納言秀家卿 尊光院殿秀月久福神儀 明暦元... ...続きを見る

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2017/11/24 11:19
石田三成の実像2101 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」4 起請文2 八丈島での和歌1
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中に「秀家ゆかりの品々と関ヶ原」という題の口絵がありますが、その中に一昨日付の拙ブログ記事で前述したように、文禄4年7月20日付の宇喜多秀家血判起請文が掲載されています。  この血判起請文は、秀次事件直後に出されたものですが、この事件後の豊臣政権の対応について、大西氏の同書の中で、次のように記されています。  「一つ目は秀吉が諸大名に嗣子秀頼への忠誠と『太閤様御法度・御置目』の遵守を誓わせたこと、二つ目は法令『御掟』・『御掟... ...続きを見る

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2017/11/23 21:36
三成の実像2100 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」3 「鷹図」・鷹狩り
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中に「秀家ゆかりの品々と関ヶ原」という題の口絵がありますが、その中に宇喜多秀家が描いたと伝わる鷹図の写真が載っています。その説明として次のように記されています。  「伝来の経緯など詳細はまったく不明。讃文は江戸初期の禅僧・嶺南崇六のものという 板橋区立美術館蔵」と。  秀家の鷹狩り好きは有名であり、これに多大な費用を使ったということが云われますが、これについては、以前に拙ブログで取り上げたように、大西氏の「豊臣期の宇喜多氏と... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2

2017/11/22 10:26
三成の実像2099 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」2 木像・画像・起請文
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中に「秀家ゆかりの品々と関ヶ原」という題の口絵がありますが、その中に「宇喜多秀家木像」の写真が載っています。その説明に次のように記されています。  「八丈島宗福寺に安置されていた像主不明の木像。慶応3年(1867)に木像の体内から秀家の詠草等が発見され、以後、秀家像との認識が定着した。元禄11年(1698)に八丈島に流された仏師民部の作という。岡山市北区・光珍寺蔵」と。  宇喜多秀家が流刑地の八丈島で亡くなったのは、明暦元年... ...続きを見る

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2017/11/21 10:39

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