アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
関ヶ原の残党、石田世一の文学館
ブログ紹介

zoom RSS ブログ 新着記事

タイトル 日 時
三成の実像2064 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」67
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の9月19日条に、次のような記載があります。  「世上騒動のことがあるので、山科言経が禁中の加番.(を勤めるため)に来た」と。  関ヶ原の戦いで、豊臣公儀側が敗れ、家康が勝利したことで、朝廷や畿内が相当動揺し、混乱していたことがわかります。言経が大坂城の家康を訪ねるのは、... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/17 10:23
三成の実像2063 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」67
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月19日条に、次のような記載があります。  「北野天満宮の祠官・松梅院が養命坊と同道して家康を迎えに出かけたが、日ノ岡に関所がすえられているので各自が帰った。家康は草津に逗留とのことである」と。  松梅院は、前述したように、杉若無心が大津攻めに向かった時、送って行... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/16 10:20
三成の実像2062 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」66
 フェイスブックの方で、先週、家族で行った城崎一泊旅行のことを写真入りで記しています。興味のある方はのぞいてくださればと思います。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7    さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の9月18日(関ヶ原の戦いの3日後)... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/15 10:35
三成の実像2061 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」65
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月18日(関ヶ原の戦いの3日後)条に、北政所や家康の動向について、次のような記載があります。 「昨夜、北政所が座を移された、とのことである。准后(勧修寺晴子)の御方にいるという風説(があり)これを尋ねるつもりである。木下家定の私宅あたりに木下勝俊が籠っている、とのこと... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/14 10:10
三成の実像2060 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」64
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月18日(関ヶ原の戦いの3日後)条に、次のように記載されています。  「早くも家康は草津まで御上洛(の途中)にある。『天下初』(家康の天下初め、ということか?)になる、ということである。(関ヶ原の戦いで)石田三成、大谷吉継そのほか各大名衆は討死した。毛利輝元と家康は... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/13 10:23
三成の実像2059 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」63
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように「義演准后日記」の9月17日条に、義演が関ヶ原の戦いの結果を知ったことが述べられており、次のような記載です。  「義演が(大坂の)森口より寅の刻(午前4時頃)に出て橋本辺りにて、美濃方面(美濃国関ヶ原ヵ)で破軍(戦いで敗北したこと)の旨のおおよその風聞があった。淀のあたり... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/12 10:23
三成の実像2058 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」62
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月17日条にも、北政所についての、次のような記載があります。  「毛利輝元より(北野天満宮へ)人が来た(北野天満宮)」「木下家定が大坂へ人質に(をヵ)呼びに下った、とのことである」「北政所も禁中に出る」  北政所の記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。  ... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/11 10:38
三成の実像2057 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」61
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の9月17日条には、北政所について、次のような注目すべき記載があります。  「近江国佐和山(城)が落(城)した。後日にこのことを聞いた。禁中あたりの『太閤屋形』(京都新城)に北政所は常に住んでいたが、兄弟の木下家定が大坂から人数を率いて迎えに来た。それから晩に北政所は陽光院... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/10 21:27
三成の実像2056 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」60
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月15日(関ヶ原の戦いの日)条には、次のような記載があります。  「平野(神社)へ石を車にて遣わした。裏の土居道は少し広く、土を方々へ持たせて遣わした。地形を直した。曼殊院良恕より西洞院時慶のところへ使者が来て、陣の祝いの有無について(質問されたので)、聞いていない旨を述... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/09 00:09
三成の実像2055 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」59
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月15日条には、関ヶ原の戦いのことに言及されているものがあり、その続きです。  「中臣祐範記」には、次のように記されています。  「尾州(美濃国関ヶ原ヵ)にて家康方と上方衆との合戦が度々あり、上方衆が優勢であったが、『手前』(自分の目の前)に至り、小早川秀秋が裏切り、うしろか... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/08 10:39
三成の実像2054 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」58
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月15日条には、大津城のことに触れられているものもあり、関ヶ原の戦いのことに言及されているものもあります。  大津城のことについては、「北野社家日記」に「大津城は毛利元康が受け取った」「杉若無心も今日(大津城攻めから)帰陣した」と記されています。  関ヶ原の戦いについては、... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/07 10:36
三成の実像2053 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」57
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月14日条にも、大津城攻めに関して、次のような記載があります。  「舜旧記」には、「大津城が落ち、(城主の)京極高次は高野山に住居」と記されています。このことは、前述したように、「中臣祐範記」の9月13日条にすでに記載がありました。  「北野社家日記」には、「北野天満宮の祠... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/06 10:15
三成の実像2052 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」56
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月13日条に大津城攻めに関して、次のような記載があります。  「北野社家日記」には、「今朝、大津城三の丸へ(毛利元康が)乗り込む。杉若無心も同様である」「今晩、北野天満宮の祠官・松梅院が大津より帰る」と。  「松梅院」は、同日記の前日条に、杉若のお供をして大津まで行った人物... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/05 10:29
三成の実像2051 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」55
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めに関して、「義演准后日記」の9月11日条に次のような記載があります。  「当郷(醍醐)に陣取りした小野の竹を伐った。ことわり(伐採禁止のことを指すと思われる)を(申し)遣わしたが、多人数にて(竹を)伐った」と。  前にも触れたように、同日記の9月6日条に、「陣取りをすること... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/04 18:32
三成の実像2050 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」54
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めについて、「舜旧記」の9月9日条には、北政所についての記載があります。  「暮れに及び北政所が豊国社へ参詣」と。  この時の北政所の思いはわかりませんが、大津城の和睦がうまくいくように、三成ら奉行衆や毛利・宇喜多の大老による豊臣公儀側が勝利して、早く太平の世が来ることように... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/03 10:21
三成の実像2049 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」53
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めについて、9月9日条の各日記にも記載があります。   「北野社家日記」には次のように記されています。  「『能札』(人名)が大津城攻め(をしている)毛利元康の見舞いに行く、ということを述べた」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「北野社ー5、291... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/10/02 10:09
三成の実像2048 高野山の墓・経堂 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記」52
 NHKの番組「ブラタモリ」の「高野山と空海」の中で、高野山にある石田三成の墓の映像もほんの一瞬だけ紹介されましたが、残念ながらナレーションは入っていませんでした。この墓は、三成自身が天正18年(1590)に建てたもので、逆修墓と云います。この墓については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「紀伊・高野山」の章の中で、写真入りで紹介しています。「ブラタモリ」では、奥の院にはテレビカメラが入れないため、タモリさんらだけがお参りし、奥の院の映像はありませんでしたが、三成は文禄3年(1... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2017/10/01 11:02
石田三成の実像2047「歴史捜査 なぜ大谷吉継だけが死んだのか?」4  漫画「石田三成の青春」
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、「石田軍記」に三成の家は貧しかったので、近くの寺に小姓として入れたと記されているものの、観音寺の林昭一住職が、行儀見習いや学問の修業のために預けられたと聞いていると述べておられ、寺は当時最高の教育機関であり、三成は学問を積む機会に恵まれたエリート少年だったと説明されていました。  観音寺には、三成が学んでいたという伝承が伝わっているのかもしれませんが、史料的には確認されていま... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/09/30 10:54
石田三成の実像2046  中野等氏「石田三成伝」6  唐入り6 安宅秀安の薩摩行き
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、琉球との交渉や朝鮮半島への渡海準備もままならない島津家に対して、三成が家臣の安宅秀安を薩摩に派遣したと記されていることを前述しました。  このことに関して、「安宅秀安は、4月3日に肥後水俣を経て、7日には鹿児島に入った」と記されています。今回の7月29日から8月1日にかけての、三成の九州ゆかりの地を巡る旅の中でも、三成が九州攻めの際辿った水俣城跡を経て鹿児島に入りましたが、安宅も同じような道を辿ったものと思われます。  これに関連して、天正20年... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2017/09/29 23:22
石田三成の実像2045「歴史捜査 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」3
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、三成の事績が紹介された中で、朝鮮の役のことが取り上げられていました。  番組では、秀吉の代わりに朝鮮半島に渡っ三成らは、前線を視察し、このまま勝ち続けたとしても、兵糧が尽き、冬を迎えて全滅してしまうと分析、これ以上の進軍を中止する命令を出したが、この決定に現地の武将たちは反発し、前線で血を流さない奉行としての三成に怒りをつのらせたこと、秀吉死後に朝鮮から撤兵した武将たちの三成... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2

2017/09/28 18:06

続きを見る

トップへ

月別リンク

関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる