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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔 
旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔  写真は人吉藩主だった相良家の菩提寺である願成寺にある石田三成ら六人の供養塔を7月30日に撮ったものです。八代城跡、球磨川を見た後、われわれは人吉に向かいました。  写真に向かって一番右側が三成、その左側が熊谷直盛・庄兵衛親子(三成の妹婿・甥) 、垣見一直、木村勝正・伝蔵親子の墓です。三成は周知のように関ヶ原で敗れ、京で処刑されますが、残りの5人は大垣城で相良氏・高橋氏・秋月氏によってだまし討ちにされています。熊谷らは三成らが関ヶ原に移動して敗れたあとも大垣城に籠って家康方と戦っていましたが... ...続きを見る

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2017/08/19 10:26
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川    
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川      写真は八代の球磨川を7月30日に撮ったものです。八代城跡を見た後、立ち寄りました。博多の商人の神屋宗湛が記した「宗湛日記」には、球磨川のほとりで三成に会ったという記述がありますが、この前後の宗湛の動向について、武野要子氏の「神屋宗湛」(西日本新聞社)には、次のように記されています。  天正15年4月「18日には秀吉の陣中見舞いのため、薩摩へ向けて出発している。宗湛は、同24日肥後八代の球磨川のほとりで石田三成に会い、三成から馬の飼料までもらい、27日卯ノ刻(午前6時)より三成のお供をし、薩州... ...続きを見る

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2017/08/18 18:59
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2  写真は八代城跡を7月30日に撮ったものです。この日は、熊本城、宇土城、八代城と道を南にとってきました。この後、球磨川、人吉の願成寺、青井阿蘇神社、人吉城歴史館、永国寺などを回りました。  秀吉は九州攻めの際、八代城に立ち寄っています(三成も秀吉に従って八代へ来ています)が、上記の八代城ではなく、相良氏が築いた八代城(古麓城)でした。ところが、その翌年、小西行長が肥後南半分を与えられた時、もっと西の球磨川河口に新たな八代城(麦島城)を築きました。  九州攻めの際、秀吉が八代に注目していたこと... ...続きを見る

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2017/08/17 10:51
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?  写真は宇土城跡の石垣であり、あちらこちらに残っています。宇土城自体は、低い丘陵地帯に築かれており、見て回るのに全く困難は覚えませんでした。  行長が宇土を本拠地にした理由について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のように記されています。  「肥前を主とする沿岸部諸大名と海上の統括・監督という任務と関係があり、有明海・八代海・天草という九州西海岸の重要な海上交通の把握に最適な場所だったからであろう。もちろんそれを意図したのが秀吉であろうことは言うまでもない」と。  鳥津氏の同書... ...続きを見る

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2017/08/16 10:43
旅行記99  石田三成の実像2001 九州の三成ゆかりの地巡り5 宇土城・行長と清正
旅行記99  石田三成の実像2001 九州の三成ゆかりの地巡り5 宇土城・行長と清正   写真は宇土城跡に建つ小西行長像を7月30日に撮ったものです。九州の三成ゆかりの地を巡る旅の2日目であり、熊本城の周りを回った後、次にレンタカーで向かったのが宇土城跡でした。 秀吉は九州攻めをして九州を平定した後の翌年の天正16年(1588)、肥後の北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に領有させました。その前に佐々成政が肥後の領主になりますが、領内に一揆が起こり、その責を問われて切腹させられます。  宇土城について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のようなことが記されていま... ...続きを見る

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2017/08/15 10:44
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?   写真は熊本市役所の14階から熊本城を7月30日に撮ったものです。ここから熊本城の全景が見られます。この日は九州の三成ゆかりの地巡りの旅の2日目でしたが、まず熊本城を見に行きました。熊本城は復興工事中で、中に入れなかったので、周囲をぐるりと回りましたが、櫓などの石垣があちらこちらで壊れていました。その被害の状況については、市役所の14階の廊下にパネル展示されていました。加藤神社は参拝できましたが。熊本城の一刻も早い復興を祈ります。  前夜(一日目)は熊本の中心街のホテルに泊まり、近くの店で馬... ...続きを見る

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2017/08/14 11:04
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い  写真は大分市の戸次川(へつぎがわ)古戦場碑を撮ったものです。戸次川(現、大野川)のそばに建っています。秀吉によって派遣された仙石秀久・長宗我部元親・信親親子、十河存保、尾藤知定ら豊臣軍が、天正14年(1586)12月、島津家久軍によって敗北したところです。秀吉自身が大軍を引き連れて九州攻めに向かうのは、翌年のことで、三成も付き従いました。  この碑の近くの小高いところに、この戦いで戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓や供養塔が建っており、そこへも行きました。これらの写真はフェイスブックの方に... ...続きを見る

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2017/08/13 10:27
石田三成の実像1998  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」4
石田三成の実像1998  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」4   写真は観音寺の山門を6日に撮ったものです。この日は長浜駅から湖国バスに乗ってきましたが、バスの本数が少ないので、11時10分発のバスに乗りました。その後、2時間半近くバスの便はありませんでした。観音寺に最初に訪ねたのは、20年程前ですが、三成の生まれ故郷の石田町を見た後、バスに乗り、観音寺で降りましたが、帰る時にはバスがなく、タクシーも走っていず、観音坂トンネルを通って石田町まで歩きました。それから観音寺には何度となく訪ねていますが。  さて、観音寺本堂で行なわれた、中井俊一郎氏の講演「... ...続きを見る

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2017/08/12 10:42
石田三成の実像1997  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」3
石田三成の実像1997  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」3   写真は観音寺本坊の入口のところで売られていた三成関連本を6日に撮ったものです。向かって左側に並んでいるのは、オンライン三成会編「三成伝説 決定版」(サンライズ出版)です。その右側に中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(同出版社)も平積みにされています。太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」も松本匡代氏の「石田三成の青春」(同出版社)もありました。一番右側に並んでいたのは「長浜ものがたり大賞コレクション」ですが、この本の存在は知りませんでした。今度買って読んでみたいと思います。  さて... ...続きを見る

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2017/08/11 10:57
石田三成の実像1996 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」1
 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていました。通説では「東軍は小早川秀秋の裏切りにより勝利。秀秋は躊躇したが、家康に鉄砲を撃ちかけられて攻撃を始めた」とされていますが、「秀秋の裏切りは開戦直後。鉄砲を撃ちかけられた事実もない」という白峰氏の見解が紹介されています。  この秀秋の裏切りが開戦直後という根拠について、記事では「石川康通と彦坂元正という家康方の武将が合戦の翌々日に書いた連署状には... ...続きを見る

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2017/08/10 16:02
石田三成の実像1995  中野等氏「石田三成伝」60  唐入り2 島津家と三成
石田三成の実像1995  中野等氏「石田三成伝」60  唐入り2 島津家と三成   写真は薩摩の出水(いずみ)城跡付近を7月31日に撮ったものです。出水城は秀吉の九州攻めの際、三成が博多の商人である神屋宗湛と茶会を行った場所です。今回の九州旅行のうち、出水の町めぐりについては後述します。 さて、中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、唐入りに関しての、島津家と三成との関わりにも触れられています。細川幽斎と三成に充てた島津義久の書状の中で、「検地の実施や名護屋城普請の役負担に応じない出水の忠辰を、『御迷惑』と述懐している」ことが取り上げられています。  出水島津家... ...続きを見る

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2017/08/09 19:04
石田三成の実像1994 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」2
石田三成の実像1994 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」2   写真は米原の観音寺の本堂への参道を6日に撮ったものです。本堂は石段を上がった上にあります。道端に「三成道」の幟が建っています。「映画 関ヶ原に学ぶ 初志貫徹の美学」という副題が付いています。観音寺で行なわれた、「戦国無双」タクシーの出陣式も中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」も田附清子氏との対談も、そのイベントの一つです。  さて、中井氏の講演ですが、秀吉が忍城の水攻めに固執していたことを示すものとして、6月12日付の三成宛秀吉朱印状、6月20日付の三成宛秀吉朱印状... ...続きを見る

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2017/08/08 10:11
石田三成の実像1993 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」1
石田三成の実像1993 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」1  写真は昨日は米原の大原観音寺で、「三成会議」の企画の一環として行われた、「戦国無双」タクシーの出陣式の後の関係者、招待客の全体写真を撮ったものです。出陣式には、三成タクシーをはじめとする「戦国無双4」の武将キャラクターをラッピングした10台のタクシーが集まりました。 、その後歴史講座としてオンライン三成会代表幹事の中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」、中井氏と同じくオンライン三成会会員である田附清子氏との対談が観音寺の本堂で行われました。狭い本堂に百名程の人が集まり、暑... ...続きを見る

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2017/08/07 12:24
三成の実像1992 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」50
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月6日条には、次のような記載があります。  「大坂より軍兵が当所(醍醐)へ来た。陣取りをすることへの気遣い(懸念)がある」と。  「時慶記」の同日条には、次のように記載されています。   「大津城へ毛利輝元が人数(軍勢)を遣わして、城を受け取る予定である、とのこ... ...続きを見る

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2017/08/06 21:15
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2   写真は杵築城の中にある石塔や五輪塔、石仏などの石造群を撮ったものです。この地域にあったものをまとめてここに置いてあり、全部で170余基あり、市指定文化財になっています。  杵築城はもともと木付城という字を書きましたが、江戸時代、「3代藩主松平重休のときの将軍からの朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたことから杵築となった」ということが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。城の係員もそういう趣旨の説明をされていました。  したがって、秀吉の時代は木付城... ...続きを見る

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2017/08/05 11:57
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1  写真は杵築(木付)城を、一松邸がある南台から撮ったものです。杵築城が海に面していることがわかります。 われわれは杵築城を見た後、西にある「勘定場の坂」を上がって、北台に立ち並ぶ武家屋敷跡をめぐり、そこから「酢屋の坂」を南に下りました。下の谷には商家が並んでいました。坂のすぐ下にかつては「酢屋」がありましたが、今は「味噌屋」に代わっています。そこからさらに南に上る「塩屋の坂」を上がり、南台に出ました。この南台にも、かつては武家屋敷が並んでいました。「きつき城下町資料館」を見学し、上記の写真... ...続きを見る

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2017/08/04 11:39
三成の実像1989 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」49
 白峰旬氏から、8月6日(日)の朝日新聞朝刊の「文化の扉」欄において、関ヶ原のテーマが扱われ、その中で白峰氏のコメントが掲載されるというお知らせをいただきました。どのようなコメントが掲載されるのか、今から楽しみにしています。  さて、白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月5日条には、大津城攻めについて、次... ...続きを見る

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2017/08/03 21:39
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性 
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性    昨日まで3泊4日でオンライン三成会の人2人と一緒に九州の三成ゆかりの地を巡る旅に行ってきました。フェイスブックでもその時の写真を一部載せています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大分空港で昼前に合流し、レンタカーを借りて、まず杵築(木付 きづき)城へ行きました。ここには石田三成の兄の正澄の兜が展示されています(上記の写真)。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、この兜の写真が掲載され、この兜につい... ...続きを見る

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2017/08/02 15:22
三成の実像1987 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」48
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月4日条には、大津城に関して次のような短い記載があります。  「大津城について雑説がある」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「この雑説とは、大津城の城主(京極高次)が敵側(家康側)になる、という内容のものと推測される」と。  大津城のこ... ...続きを見る

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2017/08/01 00:06
石田三成の実像1986  中野等氏「石田三成伝」59 三度目の奥州下向2 唐入り1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の三度目の奥州下向について、天正19年「10月6日に蒲生氏郷とともに米沢に到り、8日に三春(みはる)を経て10日には岩城平(いわきだいら)に到着して仕置を行っている」、「佐竹義宣書状から、三成は9月20日の段階では、10月10日頃には常陸の国境に達する予定だったが、若干遅れて常陸国内に入ったものと考えられる」と記されています。  三成が京に戻った時期は10月末以降であろうとの小林清治の推察も紹介されています。  秀吉が関白を辞し、代わって秀... ...続きを見る

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2017/07/31 18:32

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