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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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三成の実像2307「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」3 義弘は人心掌握の達人
 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、「島津義弘は『鬼島津』ではなく人心掌握の達人だった」という太田秀春氏の見解が紹介されていました。  太田氏は鹿児島国際大学の教授ですが、2002年にオンライン三成会の人々と朝鮮の役の跡を訪ねて韓国に行った時、ソウルで留学中の太田氏とお会いしたことがあります。その時、一緒に夕食を取りながら朝鮮の役や倭城に関するお話をいろいろうかがい、伊達政宗の倭城についての論考など、いくつかいただきました。いかにも新進気鋭の研究者という好印象を受... ...続きを見る

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2018/06/19 10:02
三成の実像2306 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」2 中央突破でなかった島津退き口2
 激しい地震の揺れに見舞われ、ガスの安全装置が働き、停まりました。阪神・淡路大震災の時以来です。詳しい状況が徐々に明らかになっていますが、被害が拡大しないよう願うばかりです。   さて、BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、関ヶ原の戦いの際の「島津退き口」は中央突破ではなかったとする見解を渡邊大門氏が示されていましたが、その後、ゲストで解説者の桐野作人氏がその説について追加解説をされていました。  すなわち、島津側の史料を見ると、敵の影がすくない時があったが、それは... ...続きを見る

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2018/06/18 11:04
三成の実像2305 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」1 中央突破でなかった島津退き口
 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、関ヶ原の戦いの際の「島津退き口」は中央突破ではなかったとする見解を渡邊大門氏が示されていました(島津氏に関する他氏の新見解も紹介されていましたが、それについては後述します)。すなわち、島津義弘は徳川本陣を中央突破せず、別の形で退却したと。  その根拠として二点挙げられていました。一つは、圧倒的な兵力差であり、わずかな軍勢しかいない島津勢が大軍の家康本陣に突っ込むのは不合理であり考えにくいという点。島津軍は1500人であるのに対し... ...続きを見る

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2018/06/17 10:20
三成の実像2304 白峰旬氏「藤堂高虎隊は 関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」10 秀秋の裏切りの記載なし
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の最後は次のように結ばれています。  「『藤堂家覚書』の関ヶ原の戦い(本戦)」に関する記載部分には、小早川秀秋の裏切りについての記載がないが、この点の理由の検討についても今後の課題としたい」と。  「藤堂家覚書」は、藤堂家家臣の働きを記載するのが中心でしたから、秀秋の裏切りによって勝利がもたらされたという事実には触れたくなかったのかもしれません。この... ...続きを見る

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2018/06/16 10:14
三成の実像2303 白峰旬氏「藤堂高虎隊は 関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」9 湯浅五助の討死
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の 中で、「藤堂家覚書」にも「藤堂姓諸家等家譜集」にも、藤堂仁右衛門(藤堂高刑)が大谷吉継家臣の湯浅五助を討ち取ったという記載があるものの、後者の方がより具体的なことが記載されていることが明らかにされ、その部分が引用されています。  高刑が馬上の五助に弓を射かけさせ槍で三十合戦い、馬より落とし、地に伏した五助を三四回刺して首を討ち取って、献上すると、家... ...続きを見る

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2018/06/15 10:32
三成の実像2302 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」8 大谷を攻めたのは南宮山下
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  K「家康は藤堂高虎の忠節に対して、帰陣の後、褒賞として伊予半国を与えて高虎は合計20万3千石になった」という要点について、次のように記されています。  「『内閣文庫蔵諸侯年表』における『津・藤堂家』の項によれば、藤堂高虎は慶長3年(1598)に伊... ...続きを見る

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2018/06/14 11:05
三成の実像2301 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」7 村越兵庫の討死の意味
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  G「家康家臣の村越兵庫はこのところ(=大谷吉継と戦った関ヶ原)で討死した」という要点について、これも「村越兵庫の討死の意味」という項目が設けられ、次のように指摘されています。  まず「『藤堂家覚書』には『権現様衆村越兵庫殿、此所に而討死被成候』と... ...続きを見る

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2018/06/13 17:58
三成の実像2300 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」6 吉継の墓・玄蕃の討死
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  G「その戦いで、藤堂仁右衛門(藤堂高虎の家臣・藤堂高刑)は大谷吉継家臣の湯浅五助という母衣の者を討ち取った」という要点について、「藤堂高虎が関ヶ原で大谷吉継と戦ったことの明確な証左となる」と指摘されています。  藤堂家が建てたと伝わる大谷吉継と湯... ...続きを見る

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2018/06/12 11:33
三成の実像2299 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」5 脇坂らの裏切りに関与?
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  E「その後、藤堂高虎は大谷吉継、脇坂安治、小川祐忠、平塚為広の四人の部将の軍勢と戦ったが、脇坂安治と小川祐忠は高虎の事前の調略によって石田方を裏切った。」  F「そのため、藤堂高虎は大谷吉継の軍勢と一線をおこなうことになった。」  こういう記載... ...続きを見る

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2018/06/11 10:37
三成の実像2298 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」4 一番首
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  C「その途中、藤堂新七郎(藤堂高虎の家臣・藤堂良勝)は先手の上方衆の軍勢にまぎれて、『あさがけの首』を取ったが、これは『諸手一番首』であった」という要点について、次のように指摘されています。  「この話は、藤堂新七郎が藤堂隊から単独で離れて先行し... ...続きを見る

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2018/06/10 10:23
三成の実像2297 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」3 徳川本隊と共に関ヶ原へ
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  B「9月15日の未明に『いつれも』青野ケ原を出て、関ヶ原へ出陣した」という要点について、次のように指摘されています。  「9月15日未明の時点では、徳川本隊も赤坂から青野ケ原へ移動(陣替)していた、ということを意味する。つまり、『いつれも』という... ...続きを見る

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2018/06/09 11:39
三成の実像2296白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」2 青野ケ原で野営
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  A「9月14日夜、家康方の先手の上方衆は青野ケ原へ出陣して、そこで野営した」という要点について、次のように指摘されています。  「先手の上方衆というのは、藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政など西国に領国がある諸将のことを指すと考えられ、尾張清... ...続きを見る

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2018/06/08 10:45
受贈御礼 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」1 三成の実像2295
 白峰旬氏から、ご論考「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)をご恵贈賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。  白峰氏からはこれまでにもいろいろとご論考をいただき、その新見解にはいつも目を開かされる思いがして、 新たなことを学ばせてもらっています。  通説では、藤堂高虎は山中に布陣していた大谷吉継と戦ったとされていますが、白峰氏の同論考では、藤堂高虎が大谷吉継と戦った場所は関ヶ原であり、その後... ...続きを見る

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2018/06/07 18:22
三成の実像2294 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」7 石田地蔵と村掟
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成が領民に慕われていたことを示すものとして、前述したように、仙琳寺の石田地蔵と成菩提院に残る十三ヶ条の村掟が紹介されていました。  石田地蔵は、領民たちが三成や一族の菩提を弔うために造って、江戸時代、入山禁止だった佐和山に密かに入って安置したものですが、何度も壊されたと番組では紹介されていました。  こういう石田地蔵の存在は、石田多加幸氏の「石田三成写真集」(新人物往来社)に写真が掲載されていたので知っていましたが、どこにあるのかは書か... ...続きを見る

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2018/06/06 11:06
三成の実像2293 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」6 従来通りの関ヶ原の戦いの描き方
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、関ヶ原の戦いの経緯は今までの通説通りの描き方でした。すなわち、戦いが始まって三時間、一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋が裏切り、さらに脇坂、赤座、朽木らも裏切ったことから、三成方は総崩れになり、戦いは六時間で終わったというふうに。これに対して、白峰旬氏によって秀秋は開戦当初から裏切り、戦いはもっと短い時間で決着がついたという見解が示されていますし、高橋陽介氏も同意されています。しかも、戦いの主戦場は関ヶ原ではなく、山中だったという説も唱えられ... ...続きを見る

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2018/06/05 11:50
三成の実像2292 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」5 過敏性腸症候群だったという見解2 韮雑炊
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成が過敏性腸症候群の病を抱えていたという見解が述べられており、関ヶ原の戦いの後、おなかを壊し下痢をおこしていたという江戸時代の書物「名将言行録」の記述が取り上げられていました。  番組では出てきませんでしたが、江戸時代に書かれた「常山紀談」の中では、逃亡していた三成を捕縛した、旧知の田中吉政が三成をもてなそうとした時、三成は「腹を壊しているので、韮雑炊をほしい」と言ったとあります。三成が一時匿われた古橋村では、腹痛の際には韮雑炊を食べるよ... ...続きを見る

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2018/06/04 10:34
三成の実像2291 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」4 過敏性腸症候群だったという見解1 
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成が過敏性腸症候群の病を抱えていたと述べられていました。その根拠として、三成が処刑される前、喉の渇きをいやすため白湯を欲したが、それがなかったため、警護の者が柿を差し出したところ、三成は「柿は痰(たん)の毒だ」と言って断ったという話が挙げられていました。むろん、この話も江戸時代に書かれた「茗話記」に出てくる逸話ですから、実際にそういうことを三成が言ったということは確認できません。  その話について、日大医学部教授の早川智氏は、次のように説... ...続きを見る

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2018/06/03 11:49
三成の実像2290 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」3 大垣大返しの時の活躍? 葦にかける税金
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成の計算能力の高さを示すものとして、賤ケ岳の戦いで味方を勝利に導いたことが挙げられていました。大垣から賤ケ岳まで52キロの距離を大返しする時、それを短時間で成し遂げるために、兵らに手ぶらで走らせ、重い武具は長浜城から15キロ離れた賤ケ岳まで運ばせ、夜明けには間に合わせました。さらに三成は先に出発して住民たちに松明を持たせ、道を明るく照らし、兵が走りやすいようにしました。こういうことが功を奏して、秀吉軍が柴田軍を討ち果たしたと説明されていまし... ...続きを見る

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2018/06/02 11:29
三成の実像2289 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」2 瞬時の計算能力は右脳で 米俵を土嚢に
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成の出世の方法は武功ではなく、頭だと説明されていました。小和田哲男氏は、三成には武功はほとんどなく、兵糧の輸送、武具の輸送や調達などを行う兵站奉行として能力を発揮し、智恵を働かせたと説明されていました。武功がほとんどないということについては異論がありますが、これについては後述します。  番組では、三成は計算能力が優れていたその例として、「名将言行録」に載っている逸話が紹介されていました。淀川が大雨で増水し堤防が決壊しそうになった時、大坂城... ...続きを見る

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2018/06/01 15:01
三成の実像2288 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」1 三献茶の科学的分析
 NHKで「偉人たちの健康診断 石田三成」が放送されました。三成に関する逸話をもとに、それに科学的分析が加えられており、興味深い内容でした。もっとも、あくまで逸話に基づいたものが中心であり、一次史料に書かれていることはあまり出てきていませんでしたから、どこまで信憑性があるか疑問な点はありますが。  最後は三成が善政を敷いていたことを示すものとして、成菩提院に残る領国に出していた十三ヶ状の掟書が取り上げられ、江戸時代も領民に慕われていたことを示すものとして、仙琳寺に残る、三成の居城だった佐和山城... ...続きを見る

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2018/05/31 12:47

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