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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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石田三成の実像2043「歴史捜査 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」1
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、白峰旬氏の新説が大きく取り上げられていました。もっとも、関ヶ原の戦いに至るまでの経過も割と長く紹介され、三成や吉継の出自や朝鮮の役などにも触れられていました(朝鮮の役に関しては、今までの「歴史捜査」でも説明されてきたことの踏襲であり、問題を感じる部分がありましたが、これについては後述します)から、大谷吉継だけがなぜ死んだということに関しては、後半で示されていたので、もう少し時間... ...続きを見る

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2017/09/26 10:13
石田三成の実像2042「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」7
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、桐野作人氏は、九州の関ヶ原の本質については、「如水は東西両軍とも違う第三勢力を構築しようと思っていたのではないか。これは家康とも毛利輝元とも仲良くしつつ、九州の中で勢力を築いていき、中央でどちらが勝つにせよ、勝った方に自分を高く売りつけようと考えていたが、これは空振りに終わった。しかし、関ヶ原で勝ったのは家康に味方した豊臣家恩顧の武将の力が大きかったため、家康は彼らに莫大な恩賞を与えることになり、西国... ...続きを見る

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2017/09/25 10:37
石田三成の実像2041「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」6
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、江上・八院の戦いに負け、進退窮まった立花は柳川城に籠城し、さらにそこに攻め手として清正と如水の兵が加わり、立花の命運が付きかけたが、立花は作戦を講じており、その作戦についても中西氏が解説されていました。  「立花は家康に詫びを入れずに帰国したが、一人上方に残してきた家臣に家康に詫びを入れさせ、赦免状をもらって帰ってきたため、戦う必要がなくなり、降伏して無血開城した」と。  このあたりのことについて... ...続きを見る

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2017/09/24 11:11
石田三成の実像2040「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」5
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、関ヶ原の戦いの後の、九州での戦いについて取り上げられていました。  大坂城から毛利輝元を退去させた家康は、西軍についた大名の討伐を開始し、九州の大名でそのターゲットになったのは、立花宗茂と島津義弘であったこと。家康は如水と清正に対して、まず柳川の立花の討伐を命じたこと。立花宗茂の猛将ぶりを示すものとして、使っていた甲冑が兜は普通の1・5倍の重さがあり、胴も重く鉄砲に対する備えができており、甲冑から割... ...続きを見る

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2017/09/23 17:41
石田三成の実像2039「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」4
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、関ヶ原の戦いの際の九州での動きについて、豊後に上陸した大友義統氏は杵築城の引き渡しを要求するが、杵築城の城代であった細川忠興の家臣は籠城し、引き渡しを拒否したこと、如水と清正は事前に細川軍に武器や物資を派遣し、援軍を杵築城に向かわせていたが、その裏には国東半島をわがものにしようとする如水の野望があったと説明されていました。  7月末に杵築城を訪ねたばかりですが、番組では杵築城や酢屋の坂などの映像が流... ...続きを見る

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2017/09/22 10:21
石田三成の実像2038「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」3
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、黒田如水が関ヶ原の戦いの際、九州で活発な動きに出ていたことが述べられていました。  中西豪氏はこの点について、関ヶ原の戦いを好機にして、如水は、黒田家の領地を広げるという野望を抱いたと解説されていました。  しかし、番組ではこの時、黒田家の居城である中津城にはわずかな兵しか残っておらず、如水は城内に蓄えていた金銀、米を放出し、それで浪人を集め、兵を整えたと伝えられている、「黒田家譜」によると集まっ... ...続きを見る

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2017/09/21 11:31
石田三成の実像2037「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」2
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、黒田長政の調略は、吉川広家に対してだけでなく、小早川秀秋に対しても行われたと述べられていました。  番組では、8月28日付で秀秋に宛てた長政書状の中に、「寂しくしている北政所への忠節があるなら、東軍の家康に味方するように」という記述があり、秀秋に寝返りを促す内容だったこと、最終的に秀秋を動かしたのは地位や領地ではなく、自分を育ててくれた叔母の北政所への思いだったこと、長政は秀頼体制の中で逼塞している... ...続きを見る

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2017/09/20 21:03
石田三成の実像2036「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」1
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、白峰旬氏、桐野作人氏が出演されていました。  まず白峰氏は、関ヶ原の戦いにおいて、家康方も三成方も豊臣公儀だったという従来の捉え方に異議を唱えられていました。すなわち、関ヶ原の戦いのきっかけになった上杉攻めは、公戦の形に偽装した家康による軍事動員であったこと、家康はこのままでは秀吉死後の集団指導体制が維持され、秀頼が成人すれば自分の政治的地位が低下するのは明白だったため、強引に上杉攻めを発動したこと... ...続きを見る

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2017/09/19 10:28
石田三成の実像2035 「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」5 首謀者不在説
 BSで放送された番組 「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」では、首謀者が三成ではないとしたら、一体誰かということに対して、乃至政彦氏は西軍の首謀者不在説を主張されていました。三成が重要な人物として活躍したことは間違いないけれども、主導していた人物ではなかった、応仁の乱や信長包囲網の首謀者が誰だったかはよくわからないように、関ヶ原の戦いの西軍もそうだったのではないかと。この点について、白峰氏の見解のように、「内府ちかひの条々」を出したことによって、豊臣公儀としての毛利・石田連合政権が成立し、その... ...続きを見る

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2017/09/18 10:34
石田三成の実像2034 「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」4 高橋陽介氏の見解2
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」の中で、「西軍の首謀者は石田三成ではなかった」という高橋陽介氏の見解ですが、三成が佐和山で吉継を説得したという説について、頼む側と頼まれる側が逆であったのではないかというだったと指摘されています。  通説では、三成が吉継を佐和山に呼んで、吉継に挙兵を持ち掛けたところ、吉継は「やめておけ。万に一つの勝機もない」といさめたものの、三成の意思は固く吉継を熱意で説得し、吉継はそれに最終的に同意し、二人は相談して毛利輝元を総大将にあおぐことにし、これ... ...続きを見る

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2017/09/17 11:06
石田三成の実像2033「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」3 高橋陽介氏の見解1
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」の中で、「西軍の首謀者は石田三成ではなかった」という高橋陽介氏の見解が紹介し、ご本人も出演されていました。  その根拠の一つ目として、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」に増田長盛・長束正家・前田玄以の署名がされており、三成の署名がないこと、7月26日付の三奉行連署状にも三成の名がないこと。根拠の二つ目は、当時の公家などの京都人の日記に、三成の名前がなく、処刑される時に初めて三成の名が出てくること。具体的には「御湯殿上日記」には、西軍が挙兵... ...続きを見る

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2017/09/16 11:12
石田三成の実像2032「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」2 参謀本部の布陣図は創作・正午には決着
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」で、関ヶ原の戦いに関する白峰旬氏の新説として「主戦場は関ヶ原ではなく、戦いは2時間で終わった」ということが述べられていましが、その根拠の3つ目として、明治26年に参謀本部が作成した「日本戦史」の合戦の「布陣図」(それが現在も流布)には信憑性がなく、創作されたものであることが挙げられていました。 参謀本部が作成した「布陣図」は、東軍は中央突破に強い魚鱗の陣を展開し、福島正則だけが最前線に配置されているのに対して、西軍は敵を包囲する鶴翼の... ...続きを見る

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2017/09/15 11:13
石田三成の実像2031「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」1 秀秋は最初から家康方
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」で、関ヶ原の戦いに関する新説として、本郷和人氏、白峰旬氏、高橋陽介氏の見解が紹介されていました。  本郷氏の新説は、「小早川秀秋は裏切り者ではなかった」というもので、関ヶ原の戦い前後の状況を考えてみると、秀秋は最初から東軍だったということが明らかになると述べられていました。その根拠の一つは、合戦前日に秀秋は松尾山から西軍の伊藤盛正を追い出して占拠したという点(番組では触れられていませんでしたが、拙ブログで前述したように白峰氏は秀秋が松尾山に... ...続きを見る

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2017/09/14 18:48
石田三成の実像2030 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」6 吉継は秀秋を疑わず
 「歴史群像 10月号」(学研)の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」の中で、主戦場は関ヶ原ではなく、山中だったとする見解が示されています。しかし、この見解に対して、当時の人々は「山中」も「関ヶ原」も区別せず同じように捉えていたのではないかという意見をよく聞きますが、当時も明確に使い分けていたという根拠も示されています。  それは9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状に、「今15日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人悉討捕候(ことごとくうちとりそうろう)」とあるのに対して、9月24日... ...続きを見る

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2017/09/13 10:25
石田三成の実像2029 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」5 短時間で終わった理由
 歴史群像 10月号」(学研)の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」の中で、石田方本隊が短時間のうちに敗れた理由について、次のように記されています。  「石田方本隊の大垣からの転進と山中布陣の目的が、南宮山の毛利勢と連携して家康方を挟撃する態勢を取ることにあったとすれば、家康方主体が15日早朝に関ヶ原へ展開し、開戦となったことは想定外であり、不意を突かれた石田方は一方的に攻め込まれ、短時間で敗北してしまったのだろう」と。  このことについて、樋口隆晴氏の見解が紹介され、その異同について記されています... ...続きを見る

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2017/09/12 10:32
石田三成の実像2028 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」4 二重の後詰のための転進 
 「歴史群像 10月号」(学研)の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」の中で、三成方本隊が大垣城を出て山中へ移動したことについて、「大垣城への後詰である南宮山の毛利勢への後詰ということになり、換言すれば『二重の後詰』ということになる。翌15日に予想される徳川勢の南宮山攻撃に対して反転・攻撃できる態勢を整えるためには、どうしても14日夜の間に大垣城から移動する必要があり、また夜間の転進ならば、大垣城攻囲中の家康方の軍勢に察知されにくいという判断もあったのであろう」と指摘されています。  白峰氏の同論考に... ...続きを見る

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2017/09/11 10:09
石田三成の実像2027 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」3 広家は家康に屈服
 白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(「歴史群像 10月号」【学研】所載)の中で、家康の当初の作戦計画について、毛利勢が南宮山に陣取ったことで、家康本隊が南宮山の後詰軍を攻撃する作戦に出ようとしたことが指摘されています。  それに対して、「家康との決戦を回避しようとして動いたのが吉川広家であ」り、「家康本隊の攻撃を恐れて家康に『命乞い』をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった」と記されています。  広家が9月17日付の自筆書状案の中で、「家康が毛利輝元との和睦に異論はな... ...続きを見る

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2017/09/10 11:14
石田三成の実像2026 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」2 大垣後詰決戦構想
 白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(「歴史群像 10月号」【学研】所載)の中で、家康の当初の作戦について、9月26日頃に書かれたと推定される伊達政宗書状と、家康の側近である村越直吉と今井宗薫に宛てた政宗の返書に書かれている内容が取り上げられています。  前者には「大垣城への押さえに以前から岐阜表に陣取りをしている衆(福島正則・池田輝政など)を差し向け、南宮山の毛利勢は家康自身(徳川本隊)を討ち果たすつもりである」という記述、後者には「大垣城への『助衆』として毛利秀元・長束正家・吉川広家・安国寺恵... ...続きを見る

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2017/09/09 15:18
受贈御礼「歴史群像 10月号」 石田三成の実像2025 白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」1
 白峰旬氏から「歴史群像 10月号」(学研)をご恵贈賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。この本の中に、白峰氏のご論考「関ヶ原合戦の真実」が掲載されています。  この論考は、今までのご著書「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)、「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)や「別府大学大学院紀要」「別府大学史学研究会『史学叢書』」などに掲載されたご論考をもとに、さらに踏み込んだ見解を示されています。  その基本姿勢は、「後世の創作(フィクション)を排除して、良質な一次史料の解釈から、全く... ...続きを見る

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2017/09/08 22:52
三成の実像2024 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」35
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、丹後田辺城攻めについて、拙ブログで抜けていた部分がありますので、申し訳ありませんが、捕足します。第35回の部分です。  「時慶記」の8月17条には次のような記載があります。  「西洞院時慶が近衛信尹のところへ参上した時、大坂(豊臣公儀)と家康の間の□(扱ヵ)のことを聞かされ、数刻(数... ...続きを見る

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2017/09/07 10:38

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