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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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石田三成の実像2194 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」11 三成襲撃事件2
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、七将による石田三成襲撃事件の責任を取って、三成が佐和山に引退する2日前の慶長4年(1599)閏3月8日付で、三成方であった島津義弘・島津忠恒・寺沢正成(広高)・立花親成(宗茂)が交わした誓紙が史料として取り上げられ、次のように解説されています。  「談合で何が話し合われたかは定かではないが、『不残心底互申出候之儀』の文言から、今後の動向について腹を割った話し合いが行... ...続きを見る

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2018/02/25 10:52
石田三成の実像2193 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」10 三成襲撃事件1
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、前田利家の死の直後に起こった、七将による石田三成襲撃事件について、次のような見解が示されています。  すなわち、「従来、この事件は、加藤清正ら七将と三成の『私戦』とされてきたが、実際は、家康の縁辺問題から続く、『徳川党』と反徳川勢力との政争の延長線上にあった。七将は、事件において常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまで家康に容認された範囲に限られていのである」と。... ...続きを見る

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2018/02/24 10:24
石田三成の実像2192 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」9 庄内の乱の収拾
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、島津領における庄内の乱に関して、「家康は乱の収拾を通じて、九州の諸大名への影響力を高めていく」と指摘され、それを示すものとして、7月9日付の島津忠恒宛寺沢正成(広高)書状が史料として取り上げられています。  その書状について、次のように解説されています。  「正成は庄内の乱の収拾に当たって、家康の指示を受けていたことがわかる。寺沢正成は、九州の諸大名と繋がりを持っ... ...続きを見る

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2018/02/23 10:33
石田三成の実像2191 水野氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」8 中野氏「石田三成伝」96
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、島津忠恒による宿老の伊集院幸侃殺害に関する、三成の対応について、次のように記されています。  「報せを聞いて激怒した三成は、3月15日付で領国にいた島津義久に充てて、詳細を告げている。結局、幸侃の生害自体は、忠恒の『短慮』によるものとして処理され、三成も穏便に済ませることとした」と。  忠恒の行為をこれ以上問題視するのは得策ではないと三成は判断したのでしょうが、三成寄りの幸侃が殺されたことには憤懣やるかたない思いがあったに違いありません。  こ... ...続きを見る

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2018/02/22 10:42
石田三成の実像2190 水野氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」8 中野氏「石田三成伝」96
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の縁辺問題の終結に関して、次のように記されています。  「慶長4年2月5日に家康と四大老・五奉行の間で誓紙が交換され、また、2月29日に前田利家が伏見の徳川邸を訪問したことにより、家康と『前田系勢力』との関係は改善された。こうして、反徳川で団結していた四大老・五奉行の中から『前田系勢力』が外れたこととなった」と。  家康は、この後、七将による三成襲撃事件の責任... ...続きを見る

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2018/02/21 17:50
石田三成の実像2189 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」7 家康の縁辺問題2
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の縁辺問題に関する、村井長明の「利家夜話」の記述が引用され、次のように内容が要約されています。  「奉行衆らは、十一ヶ条の弾劾状を作成し、前田利家の了承のもと、家康の許に糾明使を派遣している。そして、家康の返答次第で前田利家が豊臣秀頼の名代として家康を征討するというものであった」と。  そして、この事件について、次のような見解が示されています。  「四大老・... ...続きを見る

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2018/02/20 10:13
石田三成の実像2188 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」6
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、前述したように、慶長4年(1599)1月中旬に、家康と伊達政宗の間の縁辺問題が浮上したことが取り上げられていますが、それに関して「慶長年中ト斎記」に、「三成が徳川邸を襲撃するという風聞があり、徳川邸では備えを固めていたという」記述があり、「当代記」にも三成の家康邸襲撃計画があったという記述があることに言及されています。大河ドラマ「真田丸」でも、この計画のことが一話分を... ...続きを見る

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2018/02/19 11:00
石田三成の実像2187 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」5 家康の縁辺問題
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、慶長4年(1599)1月中旬に、家康と伊達政宗の間で結ぼうとした婚姻関係が問題となったことが取り上げられています。  これについて、「大名同士が勝手に縁辺を結ぶことは秀吉の命令により禁止されているが、秀吉は死の直前に大老衆が相互に縁辺を結んで結束を強化するよう命じていた」と記されています。この典拠は「豊臣秀吉遺言覚書」であり、大阪城天守閣発行の図録「特別展 五大老」... ...続きを見る

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2018/02/18 10:30
石田三成の実像2186 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」4 寺沢正成書状
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の多数派工作に関して、慶長4年(1599)1月5日付の島津忠恒・立花宗茂・小早川秀包・高橋直次・筑紫広門に宛てた寺沢正成(広高)書状が取り上げられています。この書状は、「家康が催す茶会への参加を促し、『明晩御門まて御礼ニ御出候て可然候』という心構えも説いている」ものだが、正成はまだこの時は家康寄りではなく、逆に三成寄りで、「家康が大老衆という立場から、朝鮮半島にお... ...続きを見る

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2018/02/17 09:24
石田三成の実像2185 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」3 家康の多数派工作
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、朝鮮半島からの撤兵の差配のために三成が博多に赴いていた間に行っていた、家康の多数派工作について記されています。  家康が屋敷を訪ねた大名は、慶長3年(1598)11月24日に織田信包、25日に増田長盛、26日に長宗我部元親、12月3日に新庄直頼、5日に島津龍伯(義久)、9日に長岡(細川)幽斎、17日に有馬則頼など。典拠は「言経卿記」です。  この多数派工作について... ...続きを見る

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2018/02/16 09:20
石田三成の実像2184 中野等氏「石田三成伝」95 秀頼のもとで大坂城の勤番
中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長3年(1598)12月24日に博多から大坂に戻った三成が、「早速中央の政務に復帰し」、「12月26日付で他の奉行衆と五名連署で園城寺(三井寺)充て寺領充行状(あてがいじょう)を発して」おり、翌年「正月5日付で関一政(長門守)に充てて、三成ら奉行衆の連署状が出されている」ことが記されています。  後者の連署状については、「羽柴久太郎(堀秀治)へ貸与するため、信州川中島の蔵入地代官を勤めている関一政に対し、米1200石の拠出を求めるものであった」... ...続きを見る

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2018/02/15 00:03
石田三成の実像2183 中野等氏「石田三成伝」94 朝鮮半島からの撤兵を見届けて上方へ
中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、朝鮮半島からの日本軍の撤兵について、次のように記されています。  「朝鮮に渡っていた諸将は、次々に釜山へ集結した。小西行長の救出に成功した島津義弘・忠恒・立花宗茂らの軍勢も、11月下旬には釜山に到着し、博多への帰途に就く。12月10日には島津勢が、翌11日には小西行長や寺沢正成も博多へ帰還する。三成らは明・朝鮮側の反攻に留意しつつ、帰還する将兵を迎える(大日本古文書『島津家文書』1690号)」と。  小西行長は順天城にいましたが、明・朝鮮軍が海... ...続きを見る

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2018/02/14 10:41
石田三成の実像2182 中野等氏「石田三成伝」93 家臣の八十島助左衛門と島津
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)11月23日付で三成が島津家中に充てて出した書状が取り上げられていますが、その書状には、翌24日付の三成家臣の八十島助左衛門尉書状が添えられていることも記されています。そのこと及び、博多津中からの陳情が三成のもとに来た時に、八十島を通じて回答を行なっていることから、中野氏の同書で、次のような指摘がされています。  「三成がこのたびの筑前下向に際して伴ってきた家中のなかでは、この八十島助左衛門尉が最上席に位置するよ... ...続きを見る

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2018/02/12 11:02
石田三成の実像2181 中野等氏「石田三成伝」92  博多で撤兵の差配以外の仕事もこなす
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死後、朝鮮半島からの撤兵を差配するために博多に赴いた三成が、それ以外の仕事もこなしていたことが記されています。  すなわち、「同時に、三成は博多を拠点にしつつ、西国の諸地域にも、さまざまな指示を下していく。たとえば、膝下の博多津中に対しては、改めて津内が領主権力の及ばない地域であることを確認している。これに先立って6月に下向した折に、博多津中からうけた諸々の陳情に対するものだが、三成は家中の八十島助左衛門尉を通じて『博多津中』に回答を行なって... ...続きを見る

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2018/02/11 18:39
石田三成の実像2180 中野等氏「石田三成伝」91 朝鮮半島からの撤兵をめぐって
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死を受けて博多まで朝鮮半島からの撤兵の差配に赴いた三成の行動について、次のように記されています。  すなわち、「慶長3年(1598)11月2日には、朝鮮に渡海していた徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島に迎えている。朝鮮の詳細を得た三成は、浅野長政と連署して、同じ11月2日付で、在朝鮮の諸将に対してかなり具体的な指示を発している(大日本古文書『島津家文書』989号)」」と。  秀吉の死を諸将に伝えるため、徳永・宮木が朝鮮半島に派遣されたわけですが... ...続きを見る

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2018/02/10 00:06
石田三成の実像2179 中野等氏「石田三成伝」90  安国寺恵瓊、東福寺住持に
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、慶長3年(1598)9月10日付で西笑承兌(さいしょうしょうたい)が三成に安国寺恵瓊の東福寺入院に関する書状を出していることが記されています。その書状について、次のように解説されています。  「恵瓊は慶長の役でも朝鮮に渡海していたが、秀吉は生前、恵瓊が日本に戻ればただちに東福寺住持に推すことをしばしば述べていたようで、恵瓊の入院はいわば秀吉の遺命となった。恵瓊の東福寺入寺はこの年10月に実現するが、九州に下る三成には、あらかじめ報じる必要があったの... ...続きを見る

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2018/02/09 10:15
石田三成の実像2178 中野等氏「石田三成伝」89 小早川旧臣を召し抱え
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、小早川旧臣を三成が召し抱えたことを示すものとして、慶長3年(1598)9月8日付で毛利輝元が三成に充てた書状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。  「隆景の旧臣たちは小早川秀秋が引き継いでいましたが、(小早川家の)越前転封に伴って召し放ちがなされました。しかしながら、あなたが召し抱えてくれることとなり、本当に頼もしく思い、私も悦んでいます。彼らの妻子などは、多くが中国の毛利領国にいるようですが、心配をかけるようなことはないので、安心して... ...続きを見る

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2018/02/08 10:11
石田三成の実像2177  中野等氏「石田三成伝」 88 撤兵を差配する3人は旧小早川領の代官
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)10月19日付の周防富田で博多商人の神屋宗湛に充てた書状が取り上げられていますが、その中に次のような記載があります。  「遠路ながら懇ろなお気持ちとして美醂酒二樽をお贈り頂き、嬉しく思う。ところでそなたの屋敷は宰相殿(毛利秀元)の宿所に充てられるので、いよいよ掃除など念入りに行うことが何より大事である。間もなくそちら(博多)に到着するので、(その折)詳しく話を聞こう」と。  三成と宗湛とのつながりは、宗湛が天正... ...続きを見る

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2018/02/07 17:54
石田三成の実像2176  中野等氏「石田三成伝」87 10名による集団指導体制の確認
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、秀吉の死後直後に、家康と五奉行の間に不和があったことが記されていましたが、「安国寺恵瓊を用いた毛利輝元の仲介が効を奏したものか、この際の緊張関係は九月初旬にいったんは収拾をみせる」とあり、そのことを示すものとして、9月3日付で五人の「大老」と奉行衆五名との間に取り交わされた連署起請文が取り上げられています。  その内容について、次のように解説されています。  「『大老』および奉行の十名の結束を前提に、秀頼への忠誠を誓うものである... ...続きを見る

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2018/02/06 11:50
石田三成の実像2175 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」13 秀家を気にかけていた秀吉
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で取り上げられている、秀吉の死後の9月2日付で毛利家臣の内藤周竹(隆春)が内藤元家へ宛てた書状の中に、「五人之奉行と家康半不和之由」という記載があります。  この「半」という表現について、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、次のような注が付いています。った  「仲。人と人との関係・間柄のこと。なお、中世では『半』の一字で『不和』や『... ...続きを見る

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2018/02/05 10:24

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