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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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石田三成の実像814 「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」8 行長と三成の共通点
 シンポジウムの中の鳥津亮二氏の基調講演「ここまで分かった小西行長の実像」の中で、朝鮮の役の際、行長は秀吉と綿密に連絡を取っていたものの、勝ち戦で終わらせなければならないというのが秀吉の至上命令であり、最終的に秀吉側と明側で折り合いがつかなかったのが、領土問題だと述べられていました。秀吉が大坂城で明使に対して激怒したというのは事実ではなく、その時点では問題なく終わっていたとも指摘されていましたが、これは中野等氏の「文禄・慶長の役」にも書かれており、大坂城から戻った後「堺で行われたやりとりこそが、... ...続きを見る

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2012/05/22 23:26
石田三成の実像813 「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」7 朝鮮の役での深い結びつき
 シンポジウムの中の鳥津亮二氏の基調講演「ここまで分かった小西行長の実像」の中で、天正16年に加藤清正と行長がそれぞれ肥後半国を拝領したことについて、秀吉は二人が相談して肥後を共同統治するように指示したとおっしゃっていました。行長の領地である天草で一揆が起こった時、加藤清正が援軍として来ますが、清正も一揆を収めるのに必死であり、小西に対して「商人のこせがれ」などど嘲ったという話ははありえないと指摘されていました。清正自身も武士の出ではありませんし、天草一揆を収めないと、自分の身に災難がふりかかる... ...続きを見る

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2012/05/21 23:08
大河ドラマ探訪129 京都探訪79 「平清盛」19 待賢門院と「法金剛院」・崇徳不倫の子否定論
大河ドラマ探訪129 京都探訪79 「平清盛」19 待賢門院と「法金剛院」・崇徳不倫の子否定論  写真は満開の法金剛院のしだれ桜を4月13日に撮ったものです。待賢門院桜と呼ばれていますが、法金剛院は待賢門院が復興(双丘寺《ならびのおかでら》・天安寺と推移)した寺であり、大河ドラマの第12回「清盛紀行」でも紹介されていました。私が法金剛院を訪ねるのは2度目ですが、最初は十数年前のことであり、桜の季節は過ぎていましたから、初めて法金剛院の満開の桜を見ることができました。庭園は待賢門院が極楽浄土として造園させた「池泉廻遊式浄土庭園」であり、平安時代のものです。  待賢門院が法金剛院を建立したの... ...続きを見る

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2012/05/20 23:57
石田三成の実像812 「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」6 堺ー博多間の把握
 鳥津亮二氏の「小西行長 史料で読む戦国史」に取り上げられている、石田正継と小西立佐が堺奉行を務めていたことを示す天正16年(1588年)12月20日付の石田正継定書ですが、堺の「大阿弥陀経寺文書」の中にある文書です。大阿弥陀経寺(旭蓮社)の塩風呂の入浴規定を定めたものであり、本来こうした規定は堺奉行両人で決めるものであるものの、今回は小西立佐が不在のため、やむなく正継の裁量で決定したという内容の書状です。  このあたりの三成の動向ですが、中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、「(天正16年... ...続きを見る

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2012/05/19 22:28
石田三成の実像811 「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」5 瀬戸内海の海上輸送に従事
 シンポジウムの中の鳥津亮二氏の基調講演「ここまで分かった小西行長の実像」ですが、行長は天正9年(1581年)ごろから秀吉から室津・小豆島の管理を任され、瀬戸内海の水軍・水運を統括していたと述べられていました。年不詳ながら、秀吉から「姫路から届くはずの木材などがまだ届いていない、どうなっているんだ」と怒られる書状も紹介され、瀬戸内海の海上輸送に従事する行長の姿がうかがえるとおっしゃっていました。秀吉の怒った書状は珍しいそうです。  フロイスは天正12年ごろの行長を海の司令官と呼んでいますが、実... ...続きを見る

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2012/05/18 23:54
石田三成の実像810 「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」4 秀吉に仕官
 5月12日に行われたシンポジウム「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」の会場で、和菓子「郷土銘菓 行長ごよみ」が売られており、私も買い求めました。「春季文化財特別公開」に合わせて作られたもので、茶の湯文化の発祥の地である堺にちなみ抹茶あんが用いられ、餅と絡めた三笠まんじゅうです。非常においしくその味を堪能しましたが、「行長ごよみ」には小西家が用いたとされる家紋が焼印されています。  石田三成についても、その旗印が焼印された「大一大万大吉まんじゅう」が彦根の店で売られていますが、佐和山... ...続きを見る

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2012/05/17 23:43
石田三成の実像809 「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」3 三成の花押との類似性を指摘
 5月12日に行われたシンポジウム「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」の中の鳥津亮二氏の基調講演「ここまで分かった小西行長の実像」ですが、話の中で三成については少ししか出てきませんでした。まず父親の小西立佐と堺奉行(代官)を務めたこと、小西行長と三成は自分の名前の字を花押に用いている点で共通点がある(行長は「小西」、三成は「石三」の字を用いている)こと、朝鮮の役の際、行長が明に要望した日本の役職リストに大都督として行長と並んで三成・増田長盛・大谷吉継・宇喜多秀家の名があること(亜都督の... ...続きを見る

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2012/05/16 22:26
石田三成の実像808 京都探訪78  「瑞泉寺」6「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文5 高瀬川開鑿
石田三成の実像808 京都探訪78  「瑞泉寺」6「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文5 高瀬川開鑿   写真は瑞泉寺の門を撮ったものです。門の提灯に豊臣家の桐の紋が描かれています。門の奥に見えているところに、秀次事件関連の資料が多く掲示されています。秀次が処刑された当時、鴨川の河原は現在の河原町まで広がっていて、川の流れもいく筋かあり、このあたりは大きな中州(中の島)の荒れ河原だったと、境内の説明掲示板に書かれています。   「木屋町絵図U」に掲載されている「瑞泉寺縁起絵巻」の9枚目の絵ですが、高瀬川開鑿工事を指揮する角倉了以の姿が描かれています。了以が「瑞泉寺縁起絵巻」では僧衣をまとった姿... ...続きを見る

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2012/05/15 23:54
石田三成の実像807 シンポジウム「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」2
 堺で行われる「春季堺文化財特別公開・小西行長と堺ゆかりの戦国武将〜謎多き行長と堺の歴史を探る〜」のイベントの際に、案内の小冊子には載っていないところで、この機会にもう一度訪ねてみたいと思っているところがあります。それは高須神社に合祀されている天白稲荷社であり、拙ブログ2009年9月19日記事でも触れましたが、三成が堺奉行(堺政所)だった時代に、三成が堺奉行所内に勧請した神社です。「堺市史」に記述がありますが、堺の歴史で案外知られていないことではないでしょうか。  さて、鳥津亮二氏による基調講... ...続きを見る

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2012/05/14 23:51
石田三成の実像806 シンポジウム「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」1
 昨日、堺に行ってきました。堺市総合福祉会館で行われたシンポジウム「堺ゆかりの戦国武将『小西行長』を語り尽くす」を拝聴するのが目的ですが、その前に少しだけ時間があったので、それほど遠くない開口神社(開口神社文書の中には小西家が堺の有力商人だったことを示すものがあり、秀吉朱印状もありますが、むろん境内を巡っただけです)や祥雲寺(三成と関係が深かった沢庵和尚が創建しました)、花時計(土居川公園の一部です)などを見ました。行長が朝鮮半島から持ち帰り奉納した「小西行長お手植えの松」がある菅原神社へも行き... ...続きを見る

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2012/05/13 23:55
大河ドラマ探訪128 京都探訪77 「平清盛」18 祇園女御供養塔・ドラマ上では祇園女御=乙前 
大河ドラマ探訪128 京都探訪77 「平清盛」18 祇園女御供養塔・ドラマ上では祇園女御=乙前   写真は祇園にある祇園女御供養塔をこの10日に撮ったものです。この塚のそばに祇園堂(祇園女御廟)が建っており、中に入りましたが、係員による祇園女御についての説明があり、わざわざ線香をいただきましたので火を付けお参りしました。  この時、祇園堂のことを説明した小冊子と大河ドラマ「平清盛」の人物関係図の小冊子も合わせて頂戴しましたが、大河ドラマについてもこれから保元・平治の乱が起こり面白くなるという意味のことを話しておられました。  その祇園堂の小冊子には、清盛が白河院の子であると伝えられている... ...続きを見る

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2012/05/12 23:56
大河ドラマ探訪127  「平清盛」17 朝日新聞夕刊の記事「大河『平清盛』低迷のワケ」2
 朝日新聞夕刊の記事「大河『平清盛』低迷のワケ」では、、「時代になじみがない」というNHKの会長の言葉も載っていましたし、「序盤の展開が複雑で人間関係も入り組んでおり、武士の勇ましいサクセスストーリーを期待した視聴者は『違うじゃないか』と思ったのかもしれない」というチーフプロデューサーの言葉も出ていました。むろん、これらの言葉が彼らの真意をきちんと伝えているかどうかは、この記事では春日太一氏のコメントを都合のよいように取り上げたという事実がありますから、割り引いて考える必要はあるかもしれませんが... ...続きを見る

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2012/05/11 23:57
石田三成の実像805「瑞泉寺」5「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文4 角倉了以の弟も三成の弟も秀次家臣 
石田三成の実像805「瑞泉寺」5「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文4 角倉了以の弟も三成の弟も秀次家臣   瑞泉寺の境内の一角に掲示されていた数多くの秀次関係の資料のうち、写真は瑞泉寺を創建した角倉了以翁像を撮ったものです。角倉了以と秀次の関係ですが、秀次の実弟が医師として秀次の家臣として仕え、その一周忌に当たる年に瑞泉寺を建立したということが、瑞泉寺の説明掲示板に書かれています。  石田三成の弟の光重(みつしげ)も秀次の家臣でした。光重は秀次事件の後、近江横田村に隠棲しましたが、関ヶ原の戦いの後、その子の光吉が美濃の寺に逃げ込みました。その寺が今の石田善能寺ですが、そのあたりのことはオンライン三... ...続きを見る

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2012/05/10 23:47
韓国ドラマ探訪307 「近肖古王」1 百済の国を一番大きくした王・やるせない陰影深い恋愛
 韓国ドラマ「近肖古王」は百済の国を一番大きくした王を主人公にしたものですが、単なるサクセス・ストーリーではなく、彼が愛したヨファとの陰影深き恋愛が描かれて、それも紆余曲折の末に、うまく関係の修復が図られるのかと思いきや、そうなりませんから、やるせなさが残る時代劇です。  むろん、ヨファとの恋愛はフィクションでしょうが、この時代(王の在位は西暦346年から375年)はあまり史料がありませんから、自由な発想でドラマを描くことができ、そのあたりは脚本家の腕次第と云えます。もっとも、「三国史記」の「... ...続きを見る

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2012/05/09 23:57
石田三成の実像804 「瑞泉寺」4 「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文3 処刑されるまでの妻子たち 
石田三成の実像804 「瑞泉寺」4 「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文3 処刑されるまでの妻子たち    瑞泉寺の境内の一角に掲示されていた数多くの秀次関係の資料のうち、写真は秀次の妻子が処刑される寸前の様子を描いた「瑞泉寺絵縁起」(正式にはこの言い方が正しいのでしょうか)の画像を撮ったものです。この絵については後で触れます。  写真の下の方に掲示されているのは、「瑞泉寺縁起」の巻末の記述です。「露よりもろく消えにしを聞く人までも臓を裂き魂を痛ましめずということなし」「心ある人は良将(太閤秀吉)の所為にはあるまじき御事なりとさえずりあえり」とあり、事件の悲惨さに心を痛め秀吉を批判する人々の声が... ...続きを見る

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2012/05/08 23:45
石田三成の実像803 「瑞泉寺」3 命を救われた秀次の娘・「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文2 秀次切腹
石田三成の実像803 「瑞泉寺」3 命を救われた秀次の娘・「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文2 秀次切腹   瑞泉寺の境内の一角にたくさんの秀次関係の資料が掲示されていましたが、写真はこのうち、秀次と殉死した5人が一緒に描かれた画像を撮ったものです。  拙ブログで取り上げた「おみや」(一の台の連れ子)なる女性ですが、「瑞泉寺縁起」の「秀次公御一族法名並俗名年齢」には「於美屋之前 13歳」とあります。この女性が、秀次の正室である一の台の娘であるという記述が、「太閤さま軍記のうち」に書かれており、小和田哲男氏の「豊臣秀次」でも引用されています。  一方、三成や真田家によって命を救われた、秀次と一の台... ...続きを見る

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2012/05/07 23:43
大河ドラマ探訪126  「平清盛」16 朝日新聞夕刊の記事「大河『平清盛』低迷のワケ」
 4月21日の朝日新聞夕刊に「大河『平清盛』低迷のワケ」と題する記事が載っていましたが、その記事の中に、コメントした人の話の内容が、記者の都合のよいように書き換えられており、問題となりました。しかし、記事が訂正された形跡はいまだになく、ネット新聞にもそのままの形で出ています。  その記事で視聴率低迷の理由の一つとして指摘されていたのが、まず見慣れないです。NHKはリアルな平安時代の再現にこだわり、当時は絹などの生地は豊富になかったことを踏まえ、登場人物の衣装を意図的に汚し、使い古した感じを出し... ...続きを見る

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2012/05/06 18:45
石田三成の実像802 「瑞泉寺」2 「木屋町絵図U」の中の「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文1
石田三成の実像802 「瑞泉寺」2 「木屋町絵図U」の中の「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説明文1  写真は「瑞泉寺」の境内にある地蔵堂を撮ったものです。この堂内に人形が安置されていますが、瑞泉寺の寺宝である「秀次公並びに御一族の影像三幅」に描かれた人々の像を写して作られたものです。これは昭和17年に松下幸之助氏らの財団法人「豊公会」によって、豊臣秀次公御一族没後350年の記念事業として49霊供養の五輪石塔の建立と共に行われたものだという説明文が表に貼り出されています。  お寺に置かれていた「木屋町絵図U」(木屋町共栄会)の中に、「高瀬川と角倉了以」と題して瑞泉寺蔵「瑞泉寺縁起絵巻」の絵と説... ...続きを見る

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2012/05/05 23:44
石田三成の実像802 追悼・白川亨氏  白川亨氏からいただいた二度目のご丁重なお手紙 
 白川亨氏からはもう一度ご丁重なお手紙をいただきましたが、それは拙書である小説と歌集を献本した時のご返事です。今から思えば、専門外の本をお送りしてご迷惑をおかけしたと自分自身反省しているのですが、わざわざ目を通していただき、感想と白川氏ご自身の青春時代のこと、教育に対する思いまで書いていただきました。日付は平成16年(2004年)11月11日です。その一部を紹介致します。  「小生達の頃は旧制中学時代で、しかも戦時下のため、勤労動員やら軍事訓練にそのエネルギーの殆どを費やされ暗い時代でしたが、... ...続きを見る

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2012/05/04 23:57
石田三成の実像801 追悼・白川亨氏  白川亨氏からいただいたご丁重なお手紙 
 石田三成研究の泰斗というべき白川亨氏が逝去されました。心よりご冥福をお祈り致します。  白川氏のご著書でどれぐらい多くのことを教えていただいたか、多大なる恩恵に浴したかわかりません。実際、身近にお話しさせていただいたこともありますし、白川氏からご丁重なお手紙を二度頂戴しています。  初めて白川氏のご尊顔に拝したのは、平成12年(2000年)11月に、三成の生まれ育った長浜市石田町で開かれた石田三成400年祭の折のシンポジウムにパネラーとして参加された時でした。その折に、白川氏は三成の旗印で... ...続きを見る

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2012/05/03 23:56

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