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関ヶ原の残党、石田世一の文学館
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三成の実像2158 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」4
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における二番目の論点「大谷吉継の位置について」について述べられています。  まず「大谷吉継の動向について、白峰氏は開戦時(引用者注・9月15日)山中にあったとし、高橋(報告者)は開... ...続きを見る

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2018/01/19 10:19
三成の実像2157 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」3
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における一番目の論点について述べられていますが、その続きです。  三成方本隊が「大垣をがら空きにして山中の救援に向かう」という高橋研究ノートの記載について、白峰氏の同論考には、「大... ...続きを見る

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2018/01/18 10:25
三成の実像2156白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」2
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(高橋氏の「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における一番目の論点「白峰説に対する疑問点、時系列の混乱」について述べられています。  まず高橋研究ノートに、次のようなことが指摘されています。  「白峰説『山中の大谷の... ...続きを見る

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2018/01/17 18:20
受贈御礼 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」1 三成の実像2155
白峰旬氏より渡邊大門氏編「戦国・織豊期の諸問題」(歴史と文化の研究所)をご恵贈賜りましてありがとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。  この書には白峰氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」が掲載されています。  白峰氏の論考に対する高橋氏の批判の書とは、「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」(東海古城研究会『城』222号)です。白峰氏の論考を拝読すると、白峰氏が高橋... ...続きを見る

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2018/01/16 11:39
三成の実像2154 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」6
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、「大津城攻めの諸将」が表として掲載されています。その表は「関ヶ原御合戦之時大津城責之覚」(『新修福岡市史』資料編)をもとに作成されたものです。  それによると、「中国衆」は「攻手の大将」として「毛利輝元の軍代・毛利元康」、「付衆」として「小早川秀包、垣屋四郎兵衛(恒総ヵ)、平賀(元相ヵ)」、「船手」として「村上景親」とあります。... ...続きを見る

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2018/01/15 10:54
石田三成の実像2153 中野等氏「石田三成伝」83 唐入り26 在番体制を整えて帰還
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年8月22日付の大谷吉継・石田三成連署状が取り上げられていますが、その連署状について次のように解説されています。  「充所とされる島津義弘・長宗我部元親(羽柴土佐守)・戸田勝隆(民部少輔)・生駒親正(雅楽頭)らは、いずれも巨済島(唐島)での在番を命じられた面々である。三成と大谷吉継は釜山にあって、彼らに兵粮米や在番に必要な諸物資の配当を行なっている。こうして、朝鮮半島南岸の要害(『倭城』)に拠って在番を継続する諸将に対する手当を終えた三成は、... ...続きを見る

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2018/01/14 10:25
石田三成の実像2152 中野等氏「石田三成伝」82 唐入り25 将兵帰還に向けて
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年8月6日付で浅野長吉や三成ら三奉行に充てて出した秀吉朱印状が取り上げられていますが、同日付で上杉景勝や大谷吉継、小西行長、三成らに充てた秀吉朱印状も取り上げられ、次のように解説されています。  「先にみた秀吉朱印状のうち、越冬に備えるための指示のみの内容となっているが、上杉景勝(羽柴越後宰相)や小西行長(摂津守)らを含むことから推して、充所の面々は熊川城の普請を担当した諸将と見なすことができる。すなわち、三成と大谷吉継は、在... ...続きを見る

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2018/01/13 10:30
石田三成の実像2151 中野等氏「石田三成伝」81 唐入り24 家臣に重要な役目を任せる
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)8月16日付で島津義弘・久保(ひさやす)に充てて、三成家臣の安宅秀安が出した書状の内容及び解説が次のように記されています。  「三成が帰国後すみやかに上洛して秀吉に義久隠居の件を言上するので、三成の上洛から20日程度経たのちに島津家の使者を上方へ派遣するよう指示している。秀吉の意を受けて島津家との交渉にあたるのは、三成の職責ではある。しかし、所詮は陪臣にすぎない安宅秀安のような人物が、ここまで枢機に関わるようになったことは注目す... ...続きを見る

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2018/01/12 10:32
三成の実像2150 中野等氏「石田三成伝」80 唐入り23 三成の検地を望む島津義弘・西生浦倭城訪問
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年7月22日付で相良頼房に充てて、三成家臣の安宅秀安が出した書状が取り上げられていますが、その中に次のような中野氏の解説があります。  「相良頼房は、加藤清正(賀主)と同陣するが、結果的にこの軍勢は、蔚山の南の西生浦(ソセンポ)に拠点を構築して在番(城郭等に拠って警衛にあたる)に入る」と。  2002年5月にオンライン三成会の人々と韓国にある三成関連遺跡を訪ねた際、蔚山倭城へは行きませんでしたが、その南に位置する西生浦倭城へ... ...続きを見る

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2018/01/11 17:41
石田三成の実像2149 中野等氏「石田三成伝」79 唐入り22 7月22日付相良頼房宛の安宅秀安書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、7月22日付で相良頼房に充てて、三成家臣の安宅秀安が出した書状が取り上げられていますが、その中に三成の居所に関する次のような記述があります。  「遥々、石田三成(治部少)へ御手紙いただき、尤もに存じます。ただちに報告すべきですが、(三成は)2、3日以前に釜山へ出かけましたので、戻りましたら報告いたします」と。  「(三成は)2、3日以前に釜山へ出かけました」という記述は、7月18日に三成たちは明使を伴って朝鮮半島南岸を巡検したという記述が、太田久... ...続きを見る

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2018/01/10 11:33
石田三成の実像2148 中野等氏「石田三成伝」78 唐入り21 大明日本和平条件をめぐって
 4日から2泊3日で伊勢志摩への家族旅行に行ってきました。1日かけて伊勢神宮の外宮・内宮に参拝し、3日目に鳥羽水族館を見学しました。この旅行のことは、フェイスブックの方で順次、紹介していますので、興味がある方はご覧くださればと思います。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7    さて、中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年(1593)6月28日付の秀吉朱印状に示されている「大明日本和平条件」が取り上げら... ...続きを見る

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2018/01/09 10:31
石田三成の実像2147 中野等氏「石田三成伝」77 唐入り20 晋州城攻撃・付記 晋州城訪問
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年「7月8日に宇喜多秀家が慶尚道(キョンサンド)の昌原(チャンウォン)に入り、ここで石田三成・大谷吉継・増田長盛らと朝鮮支配の全般について談合を持つことになる(大日本古文書『島津家文書』1754号)」と記されています。  彼らはいずれも晋州城攻めに第三隊として加わった武将たちであり、晋州城が陥落したのは、6月29日ですから、それを受けて今後のことを話し合ったのでしょう。  この後、三成たちは明使を釜山で迎えたことが、前述したように、太田久右... ...続きを見る

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2018/01/08 10:47
石田三成の実像2146 中野等氏「石田三成伝」76 唐入り19 倭城の布陣を計画・付記 熊川倭城登山
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、7月18日、「三成は大谷吉継・小西行長らとともに明国勅使を伴って、半島南岸の巡検を行なっている」と記されている書状が取り上げられていることを前述しましたが、この書状は同日付で島津義弘に宛てた太田久右衛門尉書状です。  太田久右衛門尉について、「石田家中の人物と判断され」、「島津勢の動きを三成に報じ、それを三成が諒承したということを島津義弘に伝えている」と中野氏の同書に記されています。  この書状の中で、「御城御陣替えの儀について、石田三成(治少)... ...続きを見る

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2018/01/07 11:45
石田三成の実像2145 中野等氏「石田三成伝」75 唐入り18 和平条件の提示・明使の名護屋出立日
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、「秀吉の明使節への引見は、5月23日に行われた。明の使節は、その後しばらく名護屋城に留め置かれるが、石田三成・増田長盛・大谷吉継らは5月24日、慌ただしく朝鮮に戻っていく(『大和田重清日記』)」と記されています。  朝鮮半島でのその後の三成の行動を示すものとして、6月16日付の相良頼房(長毎)充ての三成書状が挙げられています。  すなわち、「『一両日』の熊川(ウンチョン)訪問を告げており(大日本古文書『相良家文書』712号)、構築... ...続きを見る

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2018/01/06 07:53
石田三成の実像2144 中野等氏「石田三成伝」74 唐入り17 偽の明使と知っていたかどうか
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年(1593)5月6日までに漢城から釜山に到着していると述べられていますが、その後の三成らの動きについて、次のように記されています。  「三成らの一行は偽りの勅使を伴い、5月13日早暁に名護屋に到着する(『大和田重清日記』)。秀吉の明使節への引見は、5月23日に行われた。明の使節は、その後しばらく名護屋城に留め置かれるが、石田三成・増田長盛・大谷吉継らは5月24日、慌ただしく朝鮮に戻っていく(『大和田重清日記』)。三成らの再渡... ...続きを見る

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2018/01/05 08:21
石田三成の実像2143 中野等氏「石田三成伝」73 唐入り16  浅野長吉と梁山で面談
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)4月26日付で黒田長政・加藤清正ら諸将に宛てた三成ら三奉行連署状が取り上げられ、その最初の方は前述しましたが、後半には次のように記されています。  「浅野長吉(弾正少弼)や黒田孝高(勘解由次官)も、おそらくは『みやき』付近までは出てこないだろうから、(こちらから)彼の地へ早々に出て行って相談を行ない、それを受けてこちらに連絡をいれる。その間、われわれは、ここで兵粮を請け取り、しばらく滞陣するのがよろしかろう」と。  中野氏の解... ...続きを見る

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2018/01/04 00:05
石田三成の実像2142 中野等氏「石田三成伝」72 唐入り15 明使への対応を指示する三奉行連署状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)4月18日付で、増田長盛・大谷吉継・石田三成の三奉行が島津義弘・中川秀成・福島正則ら21名の諸将に宛てた書状が取り上げられていますが、その第一条に次のようなことが記されています。  「大明国の惣大将から和平の申し入れがあり、先般明軍の遊撃将軍が小西摂津守行長の陣所に滞在中です。日本へ渡る予定の明国勅使は昨日17日、すみやかに和平を進めるため、当所に到着しました」と。  その後に続く条で、勅使、官人、下々の人数や規模を知らせ、彼... ...続きを見る

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2018/01/03 09:57
石田三成の実像2141 中野等氏「石田三成伝」71 唐入り14 漢城の相良頼房宛の書状 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、幸州山城での敗戦の後、「戦線は漢城の北で膠着」し、「漢城以北に展開していた多くの軍勢が漢城に籠城するということで、兵粮事情も一挙に悪化した」と記されています。  3月22日付の相良頼房宛の三成書状が取り上げていますが、次のような内容です。  「安宅三郎兵衛方迄に御手紙頂き拝見致した、そちらは御在津の上、御普請中とのことで、もっともに存じる。私も一両日中にそちらへうかがう予定なのでお目にかかってお話を承りたい」と。  相良頼房はこの時点では、咸鏡... ...続きを見る

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2018/01/02 10:16
三成の実像2140 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」5
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。  いつもの通り、今年の干支をあしらった「いぬのとし」の折句歌を紹介します。 ...続きを見る

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2018/01/01 13:53
三成の実像2139 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」4
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、立花宗茂発給の感状と、大津城攻めについての他の武将が発給された感状との比較が行われています。  9月15日付で毛利元康が家臣の堀江善右衛門尉に出した感状が史料として取り上げられていますが、「9月13日の大津城攻めの時に、堀江善右衛門尉が大津城への一番乗りをおこなったことと敵の首を一つ討ち取ったことを賞した内容」です。  白峰氏... ...続きを見る

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2017/12/31 10:46

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