関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪89 夏の陣400年21 本多忠朝の墓・禁酒の神様・天王寺、岡山の戦い・秀頼不出馬は謀略?

<<   作成日時 : 2015/05/11 11:07   >>

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 写真は一心寺にある本多忠朝の墓を5月5日に撮ったものです。
安居神社で行われた「真田幸村公戦没400年慰霊祭」の後、すぐ南にある一心寺にお参りしました。一心寺には幼くして亡くなった妹の骨も混じったお骨仏がありますし、亡父の骨も分骨して一心寺に納骨しており、父の骨も混じったお骨仏が平成29年にできる予定です。お骨仏の前で手を合わせましたが、参拝者の姿は絶えませんでした。
 本多忠朝は本多忠勝の息子ですが、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで戦死しました。忠朝は徳川方の天王寺方面の先鋒を命じられましたが、豊臣方の毛利勝永の軍に敗れ、討ち取られました。戦いは熾烈さを極めていました(渡邊大門氏「大坂落城 戦国終焉の舞台」【角川選書】)
 大坂の陣に、徳川方として幸村の兄の信之は参陣しませんでしたが、息子の信吉と信政の兄弟が参加し、冬の陣、夏の陣ともに、忠朝の寄騎大名となって指揮下に入り、戦いました(橋場日月氏「知れば知るほど面白い 人物歴史ガイド 真田幸村」【学研】)。
 この最後の戦いに、幸村(信繁)は大坂城の秀頼に出馬要請しましたが、結局、秀頼は城を出ることはありませんでした。このことについて、真偽のほどは定かではありませんが、徳川方が豊臣方の勢いを挫くため、秀頼を出陣させないように謀略を仕組んだことを認めた記述が、「大坂日記」(深溝松平家に伝来)にあります(福田千鶴氏「豊臣秀頼」【吉川広文館】)。
 本多忠朝は大坂の陣の際、酒で失態を演じ、その汚名返上のため奮戦し戦死したと言われており、それがためにために、酒を封じる神様として崇められました。
 これに関して、桂米朝さんの「米朝ばなし 上方落語地図」(毎日新聞社)の「逢坂」の項に、次のような記載があります。
 「一心寺には本多出雲守の墓があって、これが禁酒の神様。しゃもじに願文を書いて奉納すると酒がやめられるというので、たくさん奉納してありますが、泣かせる文句もあれば、『酒は一合、ビールは一本、それ以上はやめさして下さい』などとムシのええことを書いてるものもある」と。
 この本は昭和56年に発行されたものですが、願文が書かれたしゃもじがたくさん奉納されているのは今も変わりません。
 
 

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