関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 大阪探訪90  夏の陣400年23 四天王寺・子供の頃の遊び場・たびたび戦火に遭う・秀頼寄進の品々

<<   作成日時 : 2015/05/13 11:25   >>

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 写真は四天王寺の五重塔(向かって右側)と金堂(向かって左側)を5月5日に撮ったものです。
 安居神社での幸村慰霊祭、一心寺参拝の後、四天王寺の境内を一巡りしました。ごったがえしていました。四天王寺は子供の頃、遊び場にしていた場所です。私が生まれ育った長屋から歩いて数分で、四天王寺に行けましたし、墓場や境内の木々で蝶々、トンボ、蝉などを採っていました。今の五重塔ができたのは1959年であり、私は当時小学生でしたが、その時のことは鮮明に覚えています。色鮮やかな新しい五重塔ができたことを嬉しく思ったことを今でもよく覚えています。
 私の出身小学校は四天王寺のすぐそばにあった市立大江小学校ですが、校歌に聖徳太子が建てた四天王寺のことが詠み込まれ、聖徳太子に敬意を払っていましたし、四天王寺は馴染み深いところであり、なくてはならない存在でした。
 毎月21日には四天王寺の境内でたくさんの露店が並んで、訪れる人々でごったがえしていました。その日のことをわれわれは「おだいっさん」と呼んでいましたが、「お大師様」という意味です。
  私が浪人している時は、体力作りのため、毎朝、境内をランニングしていました。亡父が孫を連れて四天王寺に赴き、たくさんいる鳩にかっぱえびせんを小さくちぎって餌やりをよくしていことも思い出します。
 朝日新聞夕刊の連載記事「探訪 夢のまた夢 豊臣興亡400年」の第4回に「戦火と再興 古刹の歩み」と題して、四天王寺のことが取り上げられています。
 応仁の乱、石山本願寺攻め、大坂冬の陣、太平洋戦争中の空襲、落雷、台風などによって焼けたり被害に遭ったりしたこと、「現在の境内に豊臣時代に再建されたものはない」ものの「宝物館1階の入り口正面には秀頼が寄進した太鼓や金銅行事鐘が展示して」あることなどが記されています。
 また3月30日付の朝日新聞夕刊には、「豊臣の品 再興支えた 四天王寺 空襲免れ現存」と題する記事が掲載されました。
 その記事では、「今も法要で使う法具などが豊臣家寄進とみられることが相次ぎ判明した」こと、「六時(ろくじ)堂で保管され、『宮殿(くうでん)』と呼ばれる厨子(ずし)【高さ2・8メートル、幅1・6メートル、奥行き0・8メートル】は極彩色や彫刻の豪壮さから桃山様式とわかったほか、解体修理したところ、屋根近くから『文禄7(1598)年』と記されたとみられる墨書が確認された」ことなどが記されています。
 もっとも、文禄7年という年はなく、慶長3年のことであり、秀吉が亡くなった年です。最近まで四天王寺に秀頼寄進のものがあることを知りませんでした。

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