関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1402 三成屋敷があった備前島付近・川崎橋・400年前の古地図・家康が三成屋敷に宿泊

<<   作成日時 : 2015/05/15 11:10   >>

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 写真は大川に架かる川崎橋を撮 ったものです。「大阪城 天下泰平の灯」を見に行く前に、大川沿いに北に向かって歩き、毛馬の蕪村公園まで行き、そこから引き返して、かつて住んでいた中野町のマンション付近を経由して天満橋から大阪城へ赴きました。
 石田三成や宇喜多秀家の大坂屋敷は、大坂城の北に当たる備前島にありましたが、今は備前島はなくなっており、川の流れも変わっています。昭和61年に市立桜宮小学校が発行した創立80年記念誌「わたしたちの町 桜宮」(住んでいたマンションが桜宮小学校の校区になっていたので、いただきました)の中に、「今から400年以前の都島」の地図が掲載されており、備前島も載っています。三角形の島になっており、その島の北に野田村、中野村があります。備前島からは船で川を渡れるようになっており、「川崎渡」と記載されています。この「川崎渡」と今の川崎橋とは同じ場所というわけではないでしょうが、備前島が現在のどのあたりになるかについて、手ががりを与えてくれます。
 その地図では南に備前島橋があり、さらにそのすぐに南に京橋があり、大坂城(その地図には大坂城までは描かれていませんが)へと続いています。 上の写真を撮ったところは今の地名で云えば、網島町であり、備前島があったのはその網島町あたりと推定されていますが、上述の古地図からもそれがうかがえます。現在太閤園や藤田美術館があるあたりも網島町であり、そのあたりも備前島があったあたりかもしれません。
 私が中野町のマンションに住んでいた時は、すぐ近くにかつての備前島があったとは気づきませんでしたが、思えば、豊臣家や三成ゆかりの場所に近い所に今まで偶然住まいしてきました。これも妙な因縁みたいなものを感じます。生まれ育った天王寺区界隈は、大坂夏の陣の激戦地ですし、都島区中野町から引っ越した奈良の安堵町は、三成の家臣の嶋左近が検地を行ったところです(ここも嶋左近の領地があった場所ではないかというのが坂本雅央氏の見解です)。今の宇治の住まいからは歩いて半時間程で醍醐寺や伏見城界隈まで行けます。
  さて、慶長4年閏3月、三成は武断派七将による襲撃事件の責任を取る形で、奉行職を解かれて佐和山に隠居しますが、その年の9月に家康が大坂城に赴いた時に、備前島の三成屋敷に入ります。さらに家康は三成の兄の正澄の屋敷に移っていますが、この点について、渡邊大門氏の「こんなに面白いとは思わなかった!関ヶ原の戦い」(光文社知恵の森文庫)の中で、三成は最初から家康と対立したわけではないということの論拠の一つとして挙げられています。「三成と家康の関係が悪ければ、敢えて宿所を提供することなどないはずである」と指摘されています。

 

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