関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1404 備前島の屋敷から登城して表御殿で執務・大工頭中井家の「豊臣時代大坂城指図U」

<<   作成日時 : 2015/05/19 10:53   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真は大阪の川崎橋から大川沿いに少し北に歩いたところを写真に撮ったものです。このあたりも今は網島町であり、豊臣時代は三成や宇喜多秀家の屋敷があった備前島付近だったと思われます。すぐそばの中野町のマンションに住んでいた時は、このあたりはしばしば来ていたところです。
 伏見城では、三成は城内に治部少輔丸を持っていましたが、場外にも上屋敷と下屋敷を持っていました。一方、大坂城内には三成は治部少輔郭のような屋敷は持っていなかったものと思われます。その点に関して、「大阪くらしの今昔館」の特別展「天下人の城大工 中井大和守の仕事V」 で、大工頭中井家関係資料の「豊臣時代大坂城指図U」が展示されていましたが、この本丸絵図には天守の他に奥御殿、表御殿が描かれており、表御殿で奉行衆が政務を執っていたと説明されていました。このことからすると、三成たちは城外にある自分の屋敷から登城し、奉行としての役目を果たしたのではないでしょうか。なお、その「豊臣時代大坂城指図U」には、表御殿として「御遠侍」「御対面所」「御黒書院」「御台所」「御料理之間」「御座之間」などの名が記載され、「公的な」施設だと解説されています。
 一方、奥御殿は「公的な」施設はあるものの、秀吉の私的な諸施設があり、「居住用の」施設だと説明されています。
 「豊臣時代大坂城指図U」には、本丸の北側が一段下がっており、このことについて、大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)発行の図録「天下人の城大工 中井大和守の仕事V」の中で、「本図には記載がないが、徳川大坂城の本丸も北側が一段下がり、『山里丸』と書かれている。豊臣大坂城では、ここに数寄屋(茶室)が設けられていたと推定されている。また大坂夏の陣で秀頼と母の淀殿が自害したのはこの山里丸であった。山里丸の北には欄干の付いた木製の橋が架けられ、『大坂夏の陣図屏風』(重文 大阪城天守閣)にも描かれている」と記されています。
 「大坂夏の陣図屏風」は、拙ブログで前述したように、黒田長政が描かせたと伝わるものです。
 「豊臣時代大坂城指図U」の信憑性の高さについては、昭和34年の学術調査で、大阪城の地下から野面積の石垣が発見され、絵図の位置と一致したこと、昭和59年にはやはり地下から石垣が発見され、絵図にある詰の丸東南隅櫓の石垣だと確認されたことが挙げられています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1404 備前島の屋敷から登城して表御殿で執務・大工頭中井家の「豊臣時代大坂城指図U」 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる