関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1405 「天下人の城大工 中井大和守の仕事V」の「伏見古御城絵図」・三成引退前後

<<   作成日時 : 2015/05/20 11:03   >>

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 写真は、「大阪くらしの今昔館」の特別企画展「天下人の城大工 中井大和守の仕事V」 の入口を5月16日に撮ったものです。
 中井家は法隆寺西里村を中心とした大工集団でしたが、中井正清が関ヶ原の戦いの際に、家康に従って参陣したことをきっかけとして、まず落城した伏見城の再建を手始めに、数々の城の造営を家康にi命じられます。二条城天守、江戸城天守、駿府城天守、名護屋城天守。二代目の中井正侶(まさとも)も、江戸城天守、二条城天守、それに大坂城天守の造営を担当しています。
 特別企画展では、それらの城の造営に関する資料(絵図、書状など)が多数展示されていました。そのうち、伏見城に関しては、豊臣時代の伏見城を描いた「伏見古御城絵図」が展示されており、城内に石田治部少輔と書かれた区画が記載されていますが、治部少輔丸(郭)のことです。その位置は西の丸の西側であり、他の伏見城の絵図と一致しています。ただ、その北に長束大蔵卿の屋敷が大きく描かれており、浅野長政や前田玄以の名前はありません。その絵図では、長束正家屋敷の東側に山岡道阿弥の屋敷が記載されています。また本丸の南には増田右衛門尉と書かれた区画がありますが、これは増田長盛屋敷のことです。
 城下の大名屋敷も克明に描かれていますし、宇治川に架かっている豊後橋の南には伏見城の支城である向島城も描かれています。向島城には本丸、二の丸、三の丸などの記載があり、図録「天下人の城大工 中井大和守の仕事V」 には、向島城について「秀吉が造営し、秀吉没後は徳川家康が一時的な居城としたことがあった」と記されています。
 家康が向島城にいたことについては、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)【藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』[思文閣出版]】の慶長4年(1599)の項に3月「19日伏見向島在」と記されています。この後、閏3月には武断派七将による石田三成襲撃事件が起こり(標的は三成に対してだけではなく奉行衆たちを含めてのことでしたが)、三成は治部少輔丸に立てこもって対抗しましたが、家康の裁定で佐和山隠居を余儀なくされました。その後、家康は閏3月13日に伏見城西の丸に入っています。そのことを示すものとして、相田氏の同書では、「言経卿記」の「伏見御城へ内府御移也云々」という記述が挙げられています。
 三成という重しが取れたことで、家康は伏見城に入ることが容易になったものと思われます。この後、家康は横暴を極めてゆき、「天下人」と呼ばれるようになります。
 

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