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zoom RSS 石田三成の実像1414 指月伏見城の発掘調査現地説明会1 初めて発見された堀、石垣、金箔瓦

<<   作成日時 : 2015/06/21 11:04   >>

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 写真は今回発見された指月伏見城の石垣や堀を昨日撮ったものです。現地説明会が午後一時半からあったので行ってきました。伏見城界隈は今まで二十回以上は歩いており、拙ブログ記事でたびたび取り上げましたが、今年になってからは初めてでした。
 現地説明会は大変な賑わいで長い行列ができていました。会場に入るまで一時間余り待ちました。4月18日に行われた大阪城跡の発掘調査の現地説明会の時より人出は何倍も多いという印象を持ちました。指月伏見城の堀や石垣、金箔瓦などが発見されたのは初めてなので、それだけ話題性が大きかったのでしょう。それに大阪城跡の場合は会場も広かったということに対して、今回はそれより規模が小さく、会場に入れる人数に制限がありました。
 写真は北から南の方を向いて撮ったものであり、写真に向かって左側に間詰石、裏込、石垣などが並んでおり、その西側に深い堀が見えます。堀については、現場で配布された資料には、「東西幅が北部で石垣から5メートル、南部で7メートル程あり、深さは現状でも2メートル以上ありますが、現在の底面はまだ瓦を含む埋土であり本来的には3メートルあるいは4メートルを超える深いものであったと推測されます」と記されています。
 このことについて、係員はこれからこの堀の底を掘らねばならないが、そこから金箔瓦などの出土品があれば、その掘った深さまで堀として機能していた証拠になると説明していました。
 指月伏見城は慶長の大地震で倒壊し、秀吉はすぐさま木幡山に新たな伏見城を築きました。配布資料には「絵図類などが残されていない指月城については、その様相を伺える確実な成果はなく、その位置すら特定されていませんでした」と記されています。
 もっとも、櫻井成廣氏作成の「伏見(指月)城推定復元図」が、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に掲載されています。その推定復元図にどれほど妥当性があるのかはっきりしませんが、今回の調査地は指月伏見城の西側にあたり、係員は今回発見されたのは内堀に相当する部分ではないかと説明されていました。
 この推定復元図には三成の屋敷も書き込まれています。指月伏見城の推定地一番西側に当たる場所であり、北に山中長俊、南に浅野長政、東に蒲生氏郷の屋敷がそれぞれありました。これを木幡山伏見城の屋敷跡の位置(山田邦和氏の研究成果「第3期伏見城【豊臣期木幡城】城下町推定復元図」)と比べてみると、山中長俊、浅野長政の屋敷の位置は変わっておらず、蒲生氏郷の屋敷は蒲生秀行の名になっており、代替わりしたことがわかります。三成の屋敷があったところは空白になっています。ここに三成の屋敷があったとするのは、何を根拠としているのか今のところ私自身はつかんでいません。

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