関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1418 指月伏見城の発掘調査現地説明会4 北にも南にも続く堀・「地震加藤」の虚構性

<<   作成日時 : 2015/06/27 11:24   >>

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 写真は指月伏見城の発掘調査の現地説明会の様子を6月20日に撮ったものです。見つかった堀の一番北側のところで係員の方が説明されていました。堀は今回みつかった部分の北側にも南側にも続いていると推測されるものの、このあたりは団地群であり、掘り返すことはできず確認はできないと説明されていました。
 配布された現地説明会の資料に、今回の発掘及びその意義についてまとめとして次のように記されています。
 「今回の発掘調査によって発見した石垣と堀は、遺跡台帳の地図などによる指月城推定地内では中央付近に位置しています。推定範囲内での残存微地形や遺構の検出位置等などからは、本丸の主要施設が存在していたであろう中心的エリアの西辺段に沿って設置された石垣と堀であったと位置づけられます。指月城の内部施設の一端をこのような形で調査しえたことは、城郭研究に留まらず、伏見における安土桃山時代の歴史の理解を深める上で非常に大きな成果であったと考えられています」と。
 さて、指月伏見城が大地震で倒壊した時、謹慎中の加藤清正がいち早く登城したため、秀吉に喜ばれ、謹慎を解かれたというのが「地震加藤」の話であり、小説やドラマで取り上げられることもあって、それが事実であるかのように思われています。その話には尾ひれがついています。すなわち、三成が讒言したため、清正が謹慎したこと、三成が大地震の直後に登城した時、門にいる清正の家臣に阻まれたものの、秀吉がとりなしてくれて城に入れたことなどが清正の家臣が記した「清正高麗陣覚書」「木村又蔵覚書」に記されています。
 こういう話のおかしな点について、拙ブログ記事でも取り上げましたが、私の知る限りでは、三つの点が挙げられます。一つは清正がその時期謹慎中であったことが一次史料で確かめられないことです。このことは熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」で指摘されていますし、その典拠として地震直後の7月15日付で家臣に宛てた清正書状が挙げられ、その中で地震のことは触れられているものの、謹慎を解かれたことは記されていず、「謹慎していた雰囲気もない」と同書で解説されています。すなわち、「領国の貿易についても積極的に指示を出し」、「肥後の年貢米の徴収や管理についても細かく記している」と。
 今一つは、清正が家臣を引き連れて登城するという行為は、謀反と疑われかねず、そういう行為に及んだことは史実としては疑わしいという西山昭仁氏の見解(「新発見 週刊 日本の歴史04  豊臣政権と朝鮮出兵の真相」)です。さらに三成が大地震の際、伏見城の本丸に近い自分の屋敷にいたなら清正より早く駆けつけたはずであり、その時三成は堺で明の使者の応対にあたっていたのかもしれない(「相良家文書」)ということです。

 

 

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