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zoom RSS 大阪探訪108 夏の陣400年39 「歴史秘話ヒストリア 」における秀頼6 桜門まで出るが出陣せず

<<   作成日時 : 2015/06/29 11:44   >>

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 写真は大阪城の桜門を6月19日に撮ったものです。「歴史秘話ヒストリア 戦国のプリンスいざ天下取りへ」でもここの映像が出ていました。今年は夏の陣400年ということもあって、大阪城に足を運ぶのは4回目ですが、いつも観光客で大賑わいです。むろん、外国人観光客がかなりの割合を占めていると思われますが。
 さて、同番組では、大坂夏の陣の際、豊臣方は堀の復旧が間に合わず、城を出ての野戦を強いられ、戦いから2日後の5月7日、徳川方が天王寺付近の陣を進めた時、秀頼はこの日が決戦の日と考え、大坂城本丸の正門である桜門に朝から陣を構え、最前線で戦う決意だった、その秀頼の精悍な姿に「秀吉様の面影を見て皆涙した」(『大坂御陣覚書』)と伝えられ、秀頼出陣の知らせに、豊臣方の士気は上がり、この日初めて攻勢に立ったものの、この時秀頼のもとに「味方が寝返った。城を出たら討ち取られる」(『大坂日記』)との情報がもたらされ、秀頼は動くに動けなくなったが、これは後でわかったことだが、これは家康の偽情報だったようで、この間、情勢は一変し、真田幸村ら豊臣方の有力武将は討ち取られていったと説明されていました。
 秀頼の出陣の様子について、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川広文館)には、「残念ながら出陣の様子を記す一次史料はなく、いずれも二次的な記録からうかがうしかないが、いずれにも共通するのは、秀頼は桜御門まで出て出陣のときを待ったが、時機を逸して本丸に戻り、出陣しなかったということである」と記されています。
 徳川方の謀略を記した「大坂日記」について、福田氏の同書に詳しく記されています。「深溝(ふこうず)松平家に伝来した寛文12年(1673)3月の書写奥付を持つ『大坂日記』は、家康の腹心井伊直政の『秘本』を書写したものという」と。
 また家康の謀略という点については、「大野弥十郎という大野治長の弟(壱岐守治純ヵ)が家康に仕えており、家康はこれに書状を書かせて兄のもとに届けさせた。内容は、『七組の頭(かしら)が全員心変わりをして家康に内通しており、七日の決戦では秀頼が城中より外出したところ討ち取るとの旨を知らせてきたので、本丸を出てはならない』というものだった」「治長が右の書状を秀頼にみせたので、秀頼は早々に本丸に入った」などと記されています。
 家康の謀略であることを記したものが徳方側にあるということは、「興味深い」と福田氏の同書に述べられていますが、内容にそれなりの信憑性がある証拠かもしれません。他の史料に、そういう記述がないのは気になりますし、証拠として多少弱い気がしますが。

 

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