関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1436 明治7年まであった大阪の備前町 「大関ヶ原展」7 鳥居元忠像の解説 

<<   作成日時 : 2015/07/22 11:34   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像
 写真はJR東西線の大阪城北詰駅の入口を6月19日に撮ったものです。すぐそばに大阪市長公館、藤田美術館、太閤園などがあります。このあたりも秀吉時代は備前島があったあたりだと思われます。このあたりは今は網島町ですが、大阪市立桜宮小学校発行の「創立80周年記念誌 わたしたちの町 桜宮」の「網島町」の説明の中で、「北の方を網島町、南の方を備前町といっていましたが、1872年(明治5年)3月17日に、両町が合併して網島町となりました」と記されています。備前町は備前島があったところから付けられたのではないでしようか、石田三成や宇喜多秀家の大坂屋敷は備前島にありました。三成が大坂城で政務に当たっていたときは備前島の屋敷にいたと思われます。
 「大関ヶ原展」で展示されていた7月晦日付真田昌幸宛三成書状は、大坂で書かれました。三成は29日に伏見城攻撃に参加し、30日に大坂に入城しています(中野等氏「石田三成の居所と行動」)。8月5日には佐和山に戻っています(「義演准后日記」)。
 同じく「大関ヶ原展」で展示されていた8月2日付真田昌幸宛宇喜多秀家等連署書状には、拙ブログ記事で前述したように、宇喜多秀家・毛利輝元の二大老に加えて、前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家が連署していますが、大坂城で書かれたことがわかります。
 同じく「大関ヶ原展」で展示されていた8月5日付真田昌幸等宛石田三成書状は、大坂か佐和山かのいずれかで書かれたものですが、この書状で伏見城に籠る鳥居元忠などを討ち果したことを具体的に記しています。鳥居元忠像も「大関ヶ原展」に展示されていましたが、図録の解説で状来通りの捉え方がされている箇所があり、少し失望しました。その箇所は次のように記されています。
 「上杉攻めに向かう家康は、石田等が挙兵することを予感し、別れを惜しみつつも伏見城を元忠に預けたといわれる」と。
 「いわれる」と言葉を濁しながらも、ここには家康が三成たちが挙兵することを見越して、東へ動いたという従来の見方がされています。これは今までもドラマや小説でよく描かれていることで、それが事実であるかのように世間一番にも受け取られています。しかし、家康はそういうことを予期して会津攻めに向かったというのはあまりにもリスクの大きいやり方であり、実際、三成の挙兵によって一時は天下が二分してしまいました。家康が結果的に勝ったから、こういう見方が定着したのであり、前田攻め(実際には前田利長は家康に屈服して戦いには至りませんでした)の際も、家康に従順に従って出兵していた三成が、まさか挙兵するとは思っていなかったのが実際のところではなかったでしょうか。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1436 明治7年まであった大阪の備前町 「大関ヶ原展」7 鳥居元忠像の解説   関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる