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zoom RSS 京都探訪238 石田三成の実像1422 秀吉の方広寺大仏殿造営と三十三間堂(蓮華王院)の修理

<<   作成日時 : 2015/07/06 10:20   >>

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 写真は三十三間堂を7月2日に撮ったものです。天得院の桔梗を見た日の午後に拝観しました。三十三間堂のそばは何度となく通っていますが、中に入るのは何十年ぶりのことでしょうか。外国人観光客、修学旅行生、一般客などで大いに賑わっていました。写真の三十三間堂の中に、千体観音仏がずらりと並んでいますが、改めて見ても壮観であり、異次元空間にいるような錯覚を覚えます。
 三十三間堂は正式には蓮華王院といい、平清盛が後白河上皇の院政庁の「法住寺殿」の一角に造進しました。このことは大河ドラマ「平清盛」でも描かれていました。
 三十三間堂で買い求めた三十三間堂本坊の妙法院発行の本「国宝三十三間堂」には、「大仏方広寺建立事業の一環として、蓮華王院の修理と境内整理が行われた」ことが記されており、大仏殿造営と関わりがありました。
 このあたり、具体的には、同書には次のように記されています。
 「天正14年に秀吉は大仏の造営に着手した。その境域には、蓮華王院の北側一帯が選ばれ、文禄4年(1595)に大仏殿は完成し、照高院門主准后道澄を導師として秀吉の亡父母のために千僧供養が行われた。その頃は秀吉の全盛期であり、翌5年の3月と7月にも千僧供養が催され、天台座主青蓮院尊朝法親王が導師となった。だが、その年、閏7月大地震で大仏は倒壊したが、たちまち復興が進められ、慶長7年(1602)にも焼亡するが、やはり修復され、慶長19年に鐘を鋳造するまで工事は続く。そして、千僧供養(但し、例月は洛中八宗より百口を請じる百僧供とされた)は、最初から慶長20年3月の最後まで、妙法院が管掌した。文禄4年9月25日付の秀吉朱印状は『大仏妙法院』と称しているから、妙法院は大仏の当初から特別な関係だったと思われる」と。 
 妙法院は現在、豊国神社の東側にありますが、当時も同じ位置にあり、現在の豊国神社は方広寺大仏殿跡に建っています(その南の京都国立博物館も当時は方広寺の寺域でした)。
 妙法院と方広寺が特別な関係にあったというのは、この本を読むまで知りませんでした。秀吉が亡父母のために千僧供養を最初に催したのは、9月25日のことで、朱印状が出されたのと同じ日です。この供養に三成も列席していたのかどうかははっきりしていませんが、列席していた可能性は高いと思われます。三成は8月の後半から大和国の検地を指揮し、9月9日までは大和にいたことが確実ですし、9月29日京の町衆に対し秀次の与党および妻妾の遺物提出を求めています(中野等氏「石田三成の居所と行動」【藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』[思文閣出版]】)。千僧供養の際は京に戻っていたのではないでしょうか。

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