関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1443 坂本雅央氏講演「松永弾正と平群谷」2 三成時代は嶋左近清興だったという記述

<<   作成日時 : 2015/08/11 11:28   >>

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 写真は坂本雅央氏の講演「松永弾正と平群谷」が行われた9日に近鉄平群駅の近くから椿井城を撮ったものです。椿井城址はオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「嶋左近」の章の「左近ゆかりの地を訪ねる」でも取り上げられています。
 もっとも、嶋左近が椿井城を本拠としていたのは、わずか2、3年に過ぎないことを坂本氏の講演会で指摘されていました。永禄2年(1559)8月、松永久秀が大和に侵入し、一時筒井氏は没落し、平群谷の椿井城も支配下に置きます。しかし、その後、久秀は辰市合戦で筒井順慶に敗れてからは勢力が衰え、天正4年(1576)5月に筒井順慶が織田信長から大和の支配権を認められ、久秀は信貴山城に退きます。この時期、嶋左近が椿井城に戻った可能性があるものの、今のところ確定はできないといいます。久秀は翌年の11月に滅び、さらに天正8年には信長の破城令が出されて椿井城は破城になります。
 昨日付の拙ブログ記事でも記したように、筒井氏に仕えた嶋左近と、石田家に仕えた嶋左近は別人(親子)であり、代替わりしたと主張されていましたが、三成が仕えた嶋左近は諱が「清興」だと指摘されていました。「多聞院日記」に「清興」の名が見えるのは天正18年(1590)以降であること、天正5年4月に左近が春日大社に奉納した灯篭が現存し、その銘文に「嶋左近蒸清興」と記されていると思われてきたが、諱の部分は「清興」とは読めないこと(「清」の部分は「兼」ではないかと指摘されていました)こと、「多聞院日記」には、嶋左近清興が佐和山に居住していたという記述があることなど。
 一方、筒井家に仕えた嶋左近について、「友之」という名で記載されており、それは「畠山家譜」「和州諸将軍傳」「増補筒井家記」などであり、このうち講演会では、天文元年(1532)の記述が紹介されていましたが、ここに出て来る「嶋左近友之」は、年代的な面から言って、三成に仕えた嶋左近ではないと指摘されていました。
 三成に仕えた嶋左近左近の清興の功績として、関ヶ原の戦いの前日の杭瀬川の戦いで、局地戦ながら、味方を勝利に導いたこと、佐和山城下の松原内湖に百間橋を建設したことなどが挙げられていました。関ヶ原当日の活躍としては、嶋左近のあまりのすさまじさに黒田家の家臣が怖れをなしたという話も紹介されていましたが、嶋左近の軍功は、杭瀬川、関ヶ原の戦い以外にはほとんど知られていない(史料がない)ということも指摘されていました。
 関ヶ原の戦いで、左近の戦いぶりが黒田家の家臣に怖れをなさしめ、その時の左近のいで立ちを覚えていなかったという話については、「三成伝説」の「美濃・関ヶ原の章」「嶋左近の章」でも触れています。

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