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zoom RSS 石田三成の実像1446 坂本雅央氏の講演「松永弾正と平群谷」5 久秀の出自・官職は後の三成より上

<<   作成日時 : 2015/08/16 11:10   >>

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 坂本雅央氏の講演会「松永弾正と平群谷」で、松永久秀の出自についても考証されていましたが、摂津五百住(よすみ)村の出自とする説に注目し、ここが久秀のゆかりの場所であることは疑いないと指摘されています。
 五百荘の出自とする説の根拠として、享保2年(1717)の「摂津国北山本山寺霊雲院掟」の記述、享保14年の「郡家村、東五百住村境見見聞絵図」に「松永屋敷御畑田」と記されていること、兵庫県篠山市の妙福寺はもともと五百住村にあり、久秀の甥である孫六が丹波八上城主となった永禄5年(1562に)に八上城下に移したこと、井上正雄氏の「大阪府全誌」の記述、天坊幸彦氏の「高槻通史」の記述などが挙げられていました。
 また講演会では、「弾正」の名は久秀の自称ではなく、永禄3年2月4日に「弾正少弼」として正式任官された官職名で、官位は永禄4年2月4日に従四位下に任じられたと述べられていました。
 ちなみに、三成は天正13年(1585)に従五位下、治部少輔に任じられていますが、それ以降昇進していません。従五位下の上が、従五位上、そして従四位下ですから、久秀は三成より官位としては2段階も上になります。前述したように、豊臣政権下の大名は「公家成」「清華成」「諸大夫」という身分序列がありましたが、三成は「諸大夫」大名でした。
久秀は三好長慶の側近でしたが、将軍の足利義輝からは長慶父子と同等の待遇である桐紋と塗輿の使用を許され、義輝からは長慶とほぼ同格の存在として扱われていたと、講演会で述べられていました。
 久秀の悪行の一つとして、永禄8年5月の将軍義輝殺害事件がありますが、このことについて、レジュメには、「実行部隊は息子の久通と三好義継・三人衆らであり、久秀は大和にいて参加していない。もちろん計画そのものは容認していたであろうが、積極的にかかわっていないのが実情である」と記されています。
 また東大寺焼失に関しては、やはりレジュメの中で、「一般的には久秀の所行とされているようだが、三好方の放火や失火説もある。ただ、放火にせよ失火にせよ東大寺の大仏が焼けてしまったのは事実で、これが大和の人々の久秀に対する評価を著しく損ねてしまっている」と記されています。
 もっとも、義輝殺害事件や東大寺焼失については、講演会では時間がなく、ほとんど触れられていませんでした。
 久秀は天正5年10月に織田信忠によって滅ぼされますが、享年68ということ、久秀がそれまで何度も信長を裏切ってきたのに許されたのは、信長が久秀の能力を高く買っていたからだと述べられていました。ちなみに、久秀が亡くなったとき、三成が秀吉に仕えていたのかどうかは微妙です。15才で秀吉に仕官したならすでに家臣として中国攻めに赴いていましたし、18才仕官説なら、久秀の死の前後に秀吉に仕えたことになります。
 

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