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zoom RSS 石田三成の実像1447 秀吉が亡くなった年に春日大社に奉納された宇喜多秀家灯篭・三成との親しい関係

<<   作成日時 : 2015/08/18 10:48   >>

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 写真は春日大社の景雲院の入口を6月30日に撮ったものです。国宝御本殿特別公開を見た後、立ち寄りました。「天下人崇敬と春日大社」と題して、勧進宝物が多数展示されていました。
 豊臣時代のものとしては、豊臣秀吉内書写、豊臣秀吉朱印状、豊臣秀吉春日社領宛行村付目録、増田長盛添状、慶長3年(1598)の宇喜多秀家奉納灯篭などがありました。
 慶長3年と云えば、秀吉の亡くなった年です。春日大社と秀吉の関係は、前述したように、秀吉が一時藤原氏を名乗っていた時期があるところからきており、その縁で秀家も灯篭を奉納したのでしょう。
 この灯篭は修理により、よみがえったものであり、初めて公開されました。その修理の経緯について、6月3日付の朝日新聞の「古都ナビ 春日大社『宇喜多秀家奉納灯籠』」に次のように記されています。
 「灯籠は経年劣化で壊れたまま保管されていましたが、一昨年、東京芸術大学が修理に着手。残っていた部分から失われたパーツを再現し、1年あまりかけて見事によみがえらせました」と。
 この灯篭は嶋左近が奉納した灯篭とは違って、釣灯篭です。
 またこの灯篭について、朝日新聞の同記事に、「側面には、『武』が欠けたらしい『運長久』や、『国家安全』の文字も見えます」、「寄進の月は分かりませんが、春日大社宝物殿の松村和歌子・主任学芸員は『秀吉亡き後への思いが込められたのでしょうか』と胸の内を推しはかります」などと記されています。
 展示会の題として「天下人の崇敬」という表現がありますが、これについては、展示会の説明プリントには、「近世最初の式年御造替は天下人豊臣秀吉と徳川家康の、以降は歴代徳川将軍の寄進により実現しました。特に五代将軍綱吉からは多くの宝物も奉納され、その治世の元禄御造替では、賑やかな御神宝開帳も行われました」と記されています。
 江戸時代のものとしては、寛文7年の綱吉奉納の釣灯篭をはじめ、綱吉の生母の桂昌院奉納の弓など、当時奉納された宝物も多く展示されていました。
 慶長5年三成が挙兵した時、宇喜多秀家は毛利輝元と共に大老として西軍に加わりましたが、その理由について、拙ブログで以前にも取り上げましたが、大西泰正氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)では、「この戦いが公戦の形態をとっていたこと」、「三成の秀家との個人的な関係」が挙げられています。同書では、それぞれについて詳しく論じられていますが、後者については、三成襲撃事件が起こった際、三成が「大坂城下備前島の秀家を頼った」ことが根拠の一つとして挙げられています。三成の屋敷も備前島にあり、逃げやすいということもあったのでしょうが、なにより秀家と三成の結びつきの強さといったものがうかがえる話です。

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