関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1453 石畑氏「増田長盛と豊臣の『公儀』」6 長盛らは三成鎮定を輝元に要請

<<   作成日時 : 2015/08/31 10:42   >>

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 三成が大谷吉継の同意を得て挙兵したのは、慶長5年(1600)7月11日と云われていますが、石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』所収)では、7月14日付の毛利輝元宛の前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署状に検討が加えられています。
 この書状に対して、光成準治氏・水野伍貴氏は「輝元へ決起参加を促すための上坂要請と解釈している」ものの、笠谷和比古氏は「長盛らは三成鎮定を輝元に要請するために発給したと解釈した」という見解を示され、石畑氏は笠谷氏の説に賛同されています。
 それを裏付ける史料として、家康の侍医である板坂ト斎の覚書と、慶長5年7月23日付の最上義光宛の徳川家康書状が挙げられています。まず前者の覚書には、7月12日付の永井直勝宛の増田長盛が記されており、「その内容は、美濃樽井で病気療養のために逗留していた大谷吉継から石田三成出陣の報せが(長盛らのもとに)届き、『爰許』(大坂)で種々のうわさがたっているというものであった」こと、さらにその覚書には「7月20日には前田玄以・長束正家を含む大坂にいる諸大名から『雑説』の旨が到来し、どの書状も12〜14日付であったとされており、長盛と同様の書状を他大名も家康へ送付していることがわかる」ことが明らかにされています。
 また後者の書状からは、「長盛ら三奉行は家康と『一所』であるので、(証拠として)三奉行からの書状を送るとしており、長盛個人の書状のほかに、三奉行の連署状が家康に到来し」、「三奉行の連署状は12〜14日の間に発給されたと考えられる」と指摘されています。
 こういうことからして、切畑氏の同書では、「会津征討による家康不在に加え、三成・吉継決起による上方の動揺をおさえるには、輝元に『公儀』運営を主導させるしかないと長盛らが考えて、輝元に上坂を要請したと判断される」と結論づけられています。
 こういう切畑氏や笠谷氏の見解をうべなうとしても、長盛ら三奉行は、7月17日には「内府ちかひの条々」を出して、家康へ反旗を翻すわけですから、この間、どういう経緯があってそういうことになったかの解明は今後の課題だと思われます。
 三奉行らは輝元や安国寺恵瓊の強い意向に押されたのか、三成が佐和山で原案を作成した「内府ちかひの条々」(これは私の個人的な見解ですが)に圧倒されて説得に応じた(三成は大坂城に赴いていないものの、兄の正澄は大坂城にいたはずですから、正澄の関与もあったのかもしれません)のか、いろいろと考えさせられますが。

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