関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1460 矢部健太郎氏の講演「秀吉の政権構想と石田三成」2 五大老は林羅山が創出

<<   作成日時 : 2015/09/14 10:31   >>

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 一昨日、木ノ本町で行われた、矢部健太郎氏の講演「秀吉の政権構想と石田三成」の中で、一次史料で「五大老」と表記するものはないと指摘されていました。 「五大老」を示す最古の史料は、林羅山が寛永19年(1642)に書いた「豊臣秀吉譜」であり、「五大老」は林羅山が作り出した言葉だと述べられていましたが、こういう「大老」についての見解は、矢部氏の「関ケ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)にも書かれています。
 講演会では、 「五大老」を巡る通説について、「角川第二版日本史辞典」に書かれていることがレジュメに掲載されて紹介されていました。すなわち、五大老は五奉行の上に位し、政務を総攬したこと、秀吉の晩年に設けられ、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(死後は上杉景勝)が任じられたこと、任務は五奉行の顧問であったが、秀吉の死後は伏見城で家康が政務をとり、利家が大坂城で豊臣秀頼を補佐し、実質的には五奉行の職権を奪ったことなど。
 慶長5年7月17日に出された、家康弾劾状である「内府ちがひの条々」では、奉行のことを「年寄」と称していることは前にも述べましたし、合わせて五大老が五奉行によって「奉行」と呼ばれているという堀越裕一氏の見解を紹介しましたが、 実際、秀吉は大老ではなく、「清華成」大名を創出し、それは天正16年(1588)の聚楽第行幸を契機に創り出された「武家家格」だと指摘されていました。それまで公家に「清華家」はあったものの、武家でそれを導入したのは秀吉が初めてでした。
 天正16年に「清華成」大名家に選ばれたのは織田・徳川・羽柴・宇喜多・上杉・毛利家であり、小田原攻めの後の天正19年に前田家、秀次事件の後の文禄5年に小早川家が加わりましたが、豊臣宗家の「摂関成」(摂政関白になれる家格)の下に置かれ、豊臣政権内の序列を明確にする「足かせ」であったと述べられていました。
 「清華成」大名になった時期について、豊臣期の同時代史料と、江戸時代の「寛永諸家系図伝」の記載とでは、大きくずれている点も指摘されていました。上杉景勝は天正16年8月になっているにもかかわらず、「寛永図」には文禄3年10月と書かれて約6年2ヶ月のずれがあり、同様に毛利輝元は約6年6ヶ月、前田利家は約6年2月というずれがそれぞれあることと述べられていました。これは江戸幕府による史実の歪曲であり、「清華成」大名の創出によって最も不利益を蒙ったのは徳川家であることから、江戸幕府は「清華成」大名を歴史の闇に葬り去ったと指摘されています。 「清華成」についてのこのような指摘は、「関ケ原合戦と石田三成」でもされています。
 「清華成」大名の下に「公家成」大名、さらにその下に「諸大夫」大名があり、三成ら、いわゆる奉行衆は「諸大夫成」大名に属していましたが、彼らには豊臣政権で強い権限が与えられていたと述べられていました。 

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