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zoom RSS 石田三成の実像1457 片桐昭彦氏「上杉景勝の勘気と越後一揆」3 慶長2年の家中一斉改易

<<   作成日時 : 2015/09/08 10:27   >>

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片桐昭彦氏の「上杉景勝の勘気と越後一揆」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)には、「上杉景勝の勘気を蒙った上杉家中諸士」が一覧表になって掲載されています。その数は80人に及びます。
 そのうち特異な例が慶長2年の家中一斉改易であり、9名にのぼります。 慶長5年7月14日付の直江兼続宛の石田三成書状写に名前が載っている6名のうち、「柿崎・斎藤・山本寺・加地の4人がみられることは注目される」と、片桐氏の同書に記されています。
 この改易の原因と背景について考察されていますが、「伏見城の舟入普請に際し」、「景勝に命じられた普請役に応えず、不平を訴えたために勘気を蒙ったと考えられる」と指摘されています。
 さらに「慶長2年の伏見舟入普請が正月に始められたことを考慮すると、同年の8月〜10月頃の検地、そして、11月、12月の知行地再編は、家中8人の一斉改易の後において実施された可能性が高いだろう」とも記されています。
 慶長2年の検地について、片桐氏の同書の中で、市村清貫氏の見解が紹介されています。すなわち、「収入の増加だけでなく、『知行地の再編成』と『小物成直轄化』を政策の大きな柱とし、その目的は上杉家中の知行地における在地性の克服であった」と。
 これを踏まえて、片桐氏は「彼ら8人が少なくとも舟入普請のために当時上洛して伏見に滞在し」、「彼らが本領を不在としていることは、できるだけ彼らの本領を無抵抗のまま穏便に収公するためには必要な条件であったと考えられよう」と指摘しておられます。
 「改易された8人がいずれも高禄を有する大身の者」であり、「彼ら全員を合わせて改易したということは、少なくとも合わせて1万6600石余りの知行を収公したことになる」ということも記されています。
 三成はかねてより上杉氏の取次を務めてきましたが、慶長2年は1月から9月ぐらいまで京・伏見にいたことが、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)に記されています。「1月24日秀吉京屋敷造営のために入京している(『言経』)」とありますが、伏見城舟入普請にも関わっていたのかもしれません。三成が伏見城普請のための材木搬送の指示をしていたことを示す文禄4年7月28日付の美濃の佐藤方政宛の奉行の連署状があり、以前にも記したように、曽根勇二氏の「秀吉による伏見・大坂体制の構築」(山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編『偽りの秀吉像を打ち壊す』【柏書房】所収)で取り上げられています。

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