片桐昭彦氏の「上杉景勝の勘気と越後一揆」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、慶長2年の家中一斉改易について考察され、、「伏見城の舟入普請に際し」、「景勝に命じられた普請役に応えず、不平を訴えたために勘気を蒙ったと考えられる」と指摘されていることは拙ブログで触れましたが、上杉氏が伏見城の舟入普請を命じられたことについては、「新・歴史群像シリーズ 直江兼続」(学研)の「直江兼続関連年表」には、次のように記されています。 「1月20日 兼続、伏見城改築にあたり、秀吉より伏見城総奉行を命じられる。越後人夫4000人を使い、自ら自ら監督する。完成後、秀吉より普請場御殿を賜る」と。 また慶長2年の上杉領検地について、「その目的は上杉家中の知行地における在地性の克服であった」という市村清貫氏の見解が紹介されていることも拙ブログで取り上げました。 上杉領の検地もまた、大名権力を強化し中央集権化をはかるという目的があったわけで、家中一斉改易もその一環であったことがわかります。 改易についてはそれで終わりではなく、「勘気による処罰はいずれ赦免される。赦免されるまでの期間は、2〜3年から、景勝の子定勝の代まで30年以上に及ぶものまで様々であり一定していない」と片桐氏の同書で記されています。 関ヶ原の戦いの直前に起こった越後一揆に参加した柿崎弥次郎は「兼続に従う『与板衆』として200石を知行している」が、「景勝には赦免されないまま」であり、「正式に召し出されたのは定勝の時代である」こと、「本庄・高梨・斎藤・小倉・須田の5人(うち4人は子の代)についても、赦免され帰参できたのは景勝の子定勝の代になってからであ」ることが明らかにされています。 慶長5年7月14日付の直江兼続宛の石田三成書状写に越後一揆を起こす柿崎らの名前が載っていることは、三成も越後一揆を認知し、上杉家の越後旧領回復を認めていたのではないかということも示唆しています。三成は西軍が勝利したあかつきには、味方してくれた大名たちへの加増を考えていたでしょうし、上杉氏の大幅加増も念頭にあったはずです。西軍がもし勝っていたら、上杉氏は会津に加え、越後も領有し、さらなる大大名になっていたのではないでしょうか。もっとも、毛利氏ももっと領土を広げていたでしょう。大老の毛利輝元と上杉景勝、それに宇喜多秀家、奉行の前田玄以・増田長盛・長束正家・石田三成という集団指導体制で、豊臣政権を維持していたものと思われます。三成挙兵後、二大老と四奉行の名で書状が発行されています(その時景勝は会津にいたため)が、そういう体制を戦後も取ったのではないでしょうか。 |
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