関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1485 京都探訪260 仙洞御所参観2 「京都新城」があった場所・秀頼元服の際に使用

<<   作成日時 : 2015/10/13 11:20   >>

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 写真は仙洞御所の北池を10月8日に撮ったものです。北池の庭園は「造園当初は女院御所の庭園であった」と、仙洞御所のパンフレットに記されていますし、職員さんもそのように説明されていました。仙洞御所参観は、大宮御所御車寄、大宮御所御常御殿と南庭を通り、この北池に出ました。
 現在の仙洞御所は後水尾天皇の御所として寛永7年に建てられましたが、それと同時にその北隣りに、東福門院(徳川秀忠の娘の和子が、後水尾天皇に嫁いで皇后となりました)の女院御所も建てられました。しかし、嘉永7年(1854)の大火で焼け、慶応3年(1867)に孝明天皇の女御であった英照皇太后のために大宮御所(皇太后の御所)が建てられました。
 さて、この仙洞御所があったところは、秀吉によって「京都新城」が建てられた場所です。中村武生氏監修の「中村武生とあるく洛中洛外」(京都新聞出版センター)の「御苑内にあった『京都新城』ー北政所の最期の地」でその点について、解説されています。
 秀吉が最晩年に「京都新城」を築いた意図について、その書では、「禁裏御所の近くに城を築くことで、(秀頼を)天皇とセットで守ってもらえる可能性を期待したと考えます」と指摘されています。
 もっとも、秀頼がこの城に入ったのは、「禁裏での元服と昇進の時」ぐらいであり、秀頼の城としては「あまり使われなかった」と記されています。
 この秀頼の「禁裏での元服と昇進の時」について、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川弘文館)に具体的なことが記されています。
 まず、「秀吉が秀頼のために禁裏辰巳角に普請中であった京都屋敷が慶長2年8月に竣工した」とありますが、この「京都屋敷」が「京都新城」です。今の仙洞御所は、京都御所の「辰巳(南東)角」にあります。
 また秀頼の元服に関しては、福田氏の同書に次のように記されています。慶長2年9月「25日にはまず秀吉が上洛し(『義演』)、26日に秀頼が徳川家康以下の諸大名に供奉されて上洛し、京都屋敷に入った(『義演』『言経』)。28日に参内した拾は元服し(『義演』)、即日従四位下・左近衛少将に叙任され(『義演』『言経』『湯殿』)、29日には左近衛権中将に昇進した」と。
 中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、秀頼の元服に供奉したことは書かれていませんが、この時期、三成が別の場所に行っていたという記録はなく、豊臣家にとっては一大イベントでしたから、三成も供奉していたのではないでしょうか。

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