関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1489  専宗寺の太鼓門・佐和山城の用材を用いた天井板・秀次事件をめぐっての論議

<<   作成日時 : 2015/10/17 10:44   >>

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 写真は彦根市鳥居本の専宗寺の太鼓門及びその天井を二週間近く前の、10月4日に撮ったものです。前述したように、天井は佐和山城の門の扉を使用したものだと云われています。このことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「近江・彦根」の章に書かれていることですが、同書には、かつて太鼓門の「2階に太鼓が置いてあって、その太鼓で寺の行事を知らせていた」こと、「佐和山城下本町筋にあったこの寺は関ヶ原合戦後、中山道沿いの現在の地に移され、名前も泉寺から専宗寺と改変した」ということも記されています。
 三成の時代は本町筋は賑わったはずですが、江戸時代佐和山城が廃城になってからはすたれ、代わって東にある中山道の鳥居本が繁栄したと思われます。泉寺は本町筋にあったところから、三成や一族の庇護を受け、それだからこそ、家臣の北助が佐和山城の門の扉を持ち込み、寺側もそれを受け入れたのではないでしょうか。
 この専宗寺で田附清子氏の講演会が行われましたが、その時に、拙ブログで前述したように、秀次事件の後、三成が秀次の領地であった清州21万石が拝領されるのを断ったということが取り上げられていました。このことに関して、これも前述したように、矢部健太郎氏は三成が秀次切腹事件の首謀者であるとみなされるのを避けたためだという見解が示されていました。秀吉や三成は秀次を生かすつもりでいたのに、福島正則が秀次に切腹を勧めたというのが、矢部氏の見解です。
 この秀次事件に関しては、オンライン三成会の有志の人々と唐津駅近くの店で夕食を共にした時、話題に上りました。もし秀吉の意向に反して、正則が勝手にそんなことをしたら秀吉の逆鱗に触れて処分されないはずはないという意見、秀次を高野山に住まわせるという秀吉朱印状を作って持っていかせたのは三成たち奉行衆ではなかったか(秀吉の意に反して)という意見など、いろいろ飛び出しました。
 個人的には、秀吉は秀次を生かすべきか殺すべきか、処分を迷っていたのではないかと思っています。秀吉の意に反して秀吉朱印状を出せるはずはありませんから、やはり秀吉自身が秀次を生かすことに同意したものの、その一方で将来秀頼のためには生かしておくのは得にならないという思いもあったのではないかと。正則が秀次に自害を勧めたというのは、そういう証拠はなく憶測に過ぎません。矢部氏の見解は、正則と三成たち吏僚派との対立が、この時点ですでにあったという見方に基づいているような気がします。矢野氏の見解によれば、正則が三成たち吏僚派に対する巻き返しをはかったのが秀次の切腹だということですが、秀吉がそういう意思を持っていなければ、正則も勝手にそんなことをしなかったのではないでしょうか。
 秀次事件に関しては、まだまだ疑問点も多く、今後も大いに議論されるのではないでしようか。少なくとも、三成が画策したというような江戸時代以来の見方は改めるべきだと思っています。 

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石田三成の実像1489  専宗寺の太鼓門・佐和山城の用材を用いた天井板・秀次事件をめぐっての論議 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
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