関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1490 旅行記53 名護屋・福岡旅行14 本丸大手・秀吉在陣1年・三成は渡海を含め1年半

<<   作成日時 : 2015/10/18 10:51   >>

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写真は名護屋城の本丸大手を9月20日に撮ったものです。大手口、東出丸、三ノ丸を通って、写真のところに来ました。写真の右側に「本丸大手」の説明パネルが見えますが、次のように解説されています。
 「三ノ丸と本丸を結ぶ通路で、平成3年度からの発掘調査によって、大きな城門の礎石やL型に曲がった石段、石垣の上へあがる石段などの遺構や、門や櫓のものと思われる大量の瓦などの遺物が見つかりました。
 さらにここは数度の改築が行われており、現在の形が一度にできたのではないということもわかりました。
 平成5年度の石垣修理では、変化の最終時期を基本に、門礎石を加えて整備しました」と。
 「城門」とありますが、「幻の名城 肥前名護屋城」のパンフレットには、ここに「二層の豪壮な門が築かれていた」が、「後に、仙台(青葉)城主伊達政宗が城の大手門に移したという。国宝であったが、惜しくも第2次世界大戦(昭和20年)の空襲で焼失した」と記されています。
 「本丸大手」については、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には、本丸は「南東側と北東側に虎口を設けているが、南東側虎口は、出枡状の城内最大規模の虎口を有し、『本丸大手』と呼称される」と説明されています。
 同図録には、「秀吉の名護屋在陣期間は僅か1年間であった。(天正20年4月25日〜7月22日=大政所危篤の報により帰坂、天正20年11月1日カ〜文禄2年8月15日=明国使節との対面後、秀頼誕生の報を受けた後帰坂)」と指摘されています。思いのほか秀吉の名護屋滞在は短かったわけです。
  一方、三成の方は名護屋在陣期間はもっと短いものでしたが、その代わり朝鮮半島に渡海している期間が一年余りあり、両方含めて約1年半です。
 中野等氏の「石田三成の居所と行動」によれば、三成が名護屋に在陣したのは天正20年3月29日頃、名護屋を発って朝鮮半島に向かったのは6月6日、それから1年近くを朝鮮で過ごし、明使を伴って名護屋に戻ってきたのは文禄2年5月13日、しかし、5月24日には名護屋を発って朝鮮に戻るものの、まもなく帰国する明使を迎えるためまた名護屋に戻ってきて、7月18日に明使を伴って名護屋を発ちます。三成は三度朝鮮半島へ行き、最終的に名護屋に戻ってきたのは9月23日であり、26日には名護屋を発って大坂に向かいます。これ以降、三成が名護屋に行くことも、ましてや渡海することもありませんでした。

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