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zoom RSS 石田三成の実像1493 旅行記56 名護屋・福岡旅行17 三ノ丸の南西櫓台石垣・隠居所「名護屋城」2

<<   作成日時 : 2015/10/21 09:53   >>

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写真は名護屋城の三ノ丸の南西櫓台石垣北西面を9月20日に撮ったものです。大きな鏡石が3枚見られますが、「城内でも最大級のものである」と名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」に記されています。その鏡石の大きさを示すために、地元に住むKさんに石垣の前に立っていただきました。大手口、東出丸、三ノ丸から本丸大手、本丸、天守台を見た後、再び本丸大手に出て、三ノ丸を南西に進み、この場所に出ました。
  そばにある 「三ノ丸櫓台」の説明パネルには、「この櫓台は、名護屋城で最大規模を誇」っていること、「平成6年度の解体修理では、栗石の一部に大型石材を使用していることや、石材や1尺(約30cm)単位の規格で割ろうとした矢穴跡を確認し」、また「その石垣の裏からは、宝筐印塔の一部も見つかっ」たこと、櫓台北側の解体修理によって、「少なくとも@『古い石垣』期 A『門存在』期 B『門解体玉砂利敷』期があったと推定される」ことなどが記されています。
 名護屋城が改築されている痕跡はいろいろ発見され、同図録でもそれが明らかにされていますが、櫓台にも変遷の歴史があったわけです。
 拙ブログ記事で前述したように、同図録に収録されている跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」で、当初、秀吉が名護屋城を隠居所として想定したことが明らかにされ、その一つとして、秀吉の愛児である鶴松が亡くなった直後の、増田長盛書状が挙げられています。
 そのことについて、跡部氏の同書には、「53歳にしてさずかった鶴松がわずか3歳で病没した直後、政権の奉行増田長盛がその事実や秀吉の動向、予定などを秀次側近に知らせた書状では『御家督・聚楽、中納言様(秀次)へ御渡しなされ、上様(秀吉)大坂へ御隠居』との予定が伝えられるとともに、『来年3月、上様御唐入りの儀、仰せ出だされ候』とも報じられていた(『増補駒井日記』)」と記されています。
 鶴松が亡くなったのは、天正19年(1591)8月5日であり、この時、三成は東北で起こった九戸政実の反乱を鎮圧するため奥州に赴いていました。三成が京に戻ってきたのは、10月末以降であったという小林清治氏の見解(『奥州仕置と豊臣政権』)が、中野等氏の「石田三成の居所と行動」の中で紹介されています。
 増田長盛書状では、秀吉が「大阪へ御隠居」と述べられていますが、跡部氏の同書では、「『隠居』と『唐入り』は、矛盾なく並びたつものであった」と指摘されています。
 

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