関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1495 旅行記58 名護屋・福岡旅行19 伝「馬場」西側櫓台・秀吉の「三国国割構想」

<<   作成日時 : 2015/10/25 10:54   >>

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 写真は名護屋城の伝「馬場」西側櫓台を9月20日に撮ったものです。伝「馬場」を進んだところにあります。
 この櫓台について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」について次のように記されています。
 馬場の「西側には櫓台が配置されているが、現況通路西端よりも約30mも東側の位置にある。ただし、西側櫓台は、本丸旧石垣南西隅角に合わせた位置に設置したことも想定され、本丸拡張の影響を直接受けている可能性があり、通路では無く相当の空間=曲輪そのものが存在していた可能性もある。西側櫓台周辺からは、鬼瓦をはじめ瓦類が比較的纏まって出土しており、一定規模の櫓が建っていたことが想定される」と。
 要するに、「伝・馬場」の通路の櫓台の付近は曲輪が作られていた可能性があるということです。
 さて、同図録に収録されている跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」の中で、「漢城を陥落させた直後、彼(=秀吉)が発表した著名な『三国国割(くにわり)』構想」についても触れられ、その構想について、次のように記されています。
 「秀次あての朱印状に披瀝されたこの計画では、後陽成天皇は明国の首都北京へ移され、『日本帝位』にはその皇子か皇弟が擁立される予定であ」り、「秀次も北京へ渡って『大唐関白』となり、『日本関白』には秀次の弟秀保か秀吉の養子宇喜多秀家がつけられる(『前田家所蔵文書』)。秀吉自身は当分のあいだ北京に滞在し、のちには東アジア交易の要所である寧波(ニンポー)【中国浙江省】に拠点をかまえるつもりという(『組屋文書』)」と。
 この「前田家所蔵文書」は、天正20年5月18日付で秀次に対して発せられた秀吉の「覚」であり、一方の「組屋文書」は、「同日付で側近の山中長俊が豊臣家の女中に発した書状」であることが、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)に記されています。
 漢城が陥落したのは5月3日、その報が名護屋の秀吉に伝わったのが5月16日です。秀吉がその日に漢城の陥落を知ったことを示すものとして、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」には、同日付の加藤清正宛、黒田長政宛、小早川隆景宛、鍋嶋直茂宛の秀吉朱印状4通が挙げられています。
 この頃の三成は名護屋に在陣していましたが、中野等氏の「石田三成の居所と行動」には、「5月5日・6日と島津家の『御日記』に登場し、名護屋在陣が確認される(『薩藩旧記』)。その後も大谷吉継・増田長盛・長束正家らとともに秀吉の直状に取次として名がみえており、名護屋での在陣を継続していた」と記されています。
 
 

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