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zoom RSS 石田三成の実像1496 旅行記59 名護屋・福岡旅行20 本丸南西隅石垣・秀吉の「三国国割構想」2

<<   作成日時 : 2015/10/26 10:28   >>

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写真は名護屋城の本丸南西隅石垣を9月20日に撮ったものです。そばの説明版には、次のようなことが記されています。
 「平成8年度に解体修理した前面の石垣は、復元すると10mの高さとなります。石垣の途中に横長で薄い石材を用いる特徴がありますが、この石材の大部分が割れたために、石垣崩壊が進んだと考えられます。(中略)
 自然崩壊だけでなく、人為的に破壊したと推定されるため、修理した石垣前面に覆土を行い、破壊当時の状況をそのまますることとしました。
 なお、崩れた石垣の中から江戸時代の銭が出土し、破壊時期を推定する資料の発見がありました」などと。
 この説明文からも、石垣の修復や保存の作業の苦心のほどがうかがえます。石垣が江戸時代に破壊されたのは、一国一城令や、秀吉が作った城というだけに破城されたことなどが原因ではないかと思われます。
 さて、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」に収録されている跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」の中で、秀吉が発表した著名な「三国国割(くにわり)』構想」についても触れられていることは拙ブログ記事で前述しましたが、その構想についての従来の説を否定して新たな見解が示されています。
 まず従来の説については次のように説明されています。
 「ここから多くの論者が国家の権力構造、とりわけ天皇と秀吉の地位や両者の関係を読みといてきた。そのほとんどは、秀吉の地位を天皇よりも超越させ、天皇の地位や役割を相対的に下落させるものとして『三国国割』を位置づけている」と。
 「秀吉が『中華皇帝』(あるいは東アジアの皇帝)になった(なる予定)とも主張する」という堀新氏の見解も取り上げられています。
 それに対して跡部氏は「絶大な権力を手にした秀吉は古い身分制度にとらわれ、また東アジアの古い華夷意識にもしばられていた。これらの伝統に拘束され、こだわり続けたゆえにこそ、天皇を北京に移し中華皇帝にすえるという前代未聞の構想が飛び出したのだ」、「(秀吉は)自身を天皇権威の復興者と規定した」などと指摘されています。
  秀吉の「三国国割」構想は無謀な計画ですが、秀吉はその後、6月3日令を発し、「朝鮮半島の奥地さらに明国へ侵攻することを要求し」、秀吉に代わって渡海する、奉行衆の大谷吉継、増田長盛・石田三成はこの軍令を携行していました(中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役)。三成たちも無謀な計画だとわかっていたはずで、心中は複雑なものがあったに違いなく、現地で、悲惨な状況を目にすることになります。

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