関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1475 旅行記48 名護屋・福岡旅行9 名護屋城の正面玄関口・最初拠点は博多と想定

<<   作成日時 : 2015/10/02 10:41   >>

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写真は名護屋城の正面玄関口を9月20日に撮ったものです。写真に向かって右側に見えている石垣は大規模な櫓台の一部です。左側は大手口石垣、真ん中が大手道、登城坂であり、東出丸に通じています。名護屋城を描いた屏風絵には門は描かれておらず、太閤道(唐津街道)はここに通じていたと云います。
 秀吉が大陸侵攻したのは信長の意思を継いだという見方が一般的であり、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」でも、そのことを示すルイス・フロイスの「日本史」の記述が取り上げられています。
 同図録では、「現在確認できる史料では、秀吉が大陸侵攻の意志を具体的に表明したのは、天正13年(1585)7月に関白に叙任された直後の9月であるが、天正15年(1587)の九州平定により急速に具現化してゆく」と記されています。
 同図録に掲載されている、天正15年5月28日付の徳川家康宛の豊臣秀吉書状の中に、「筑前・筑後国を小早川隆景に与え、『大唐南蛮高麗舩着』である博多に大陸侵攻のための『御座所』普請を命じた」と記されています。   この時点では、博多に大陸侵攻の拠点を作ろうとしていたことがわかりますが、それが名護屋に変わった理由について、やはり同図録に掲載されている天正19年8月23日付の石田正澄書状の解説に次のように記されています。
 「海上輸送等の船舶運用に関する面を重視した地理的・地形的要因等が主に考えられている」と記されています。
 また同図録の別の個所には、名護屋は「日本本土から『高麗への渡り口』=釜山への中継拠点となる島嶼部『壱岐』・『対馬』へ最も近く、かつ大小多数の船舶運用に適した港・入江を確保する能力が名護屋にはあり、この地域には『倭寇』或いは『松浦党』という言葉に象徴される古来よりこの海域を熟知した人々が居た」と記されています。 前にも触れたように、名護屋城の天守台跡からは壱岐・対馬が肉眼で見える程、近い距離にありますし、名護屋が港として機能する「地理的・地形的」に適した場所にあったことがよくわかりました。もっとも、今はかつて30万ともいわれる人々であふれた賑わいはなく、「栄枯盛衰」を如実に感じますが。
 しかし、朝鮮侵攻がなければ、豊臣政権はもっと存続したかもしれず、三成自身も無謀な戦いをしたものだという思いに捉われていたのではないでしょうか。文禄の役の際、三成が小西行長らと共に和平交渉に積極的に取り組んだのは、一刻も早く講和して政権の不安要素を除きたいという必死の思いがあったからだと思われます。

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