関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1477 旅行記50 名護屋・福岡旅行11 名護屋城東出丸・秀吉の御座所と渡海延期 

<<   作成日時 : 2015/10/04 19:03   >>

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 写真は名護屋城の東出丸を9月20日に撮ったものです。今は広場的な雰囲気になっています。大手道を上がったところにあります。東出丸について、名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」には次のように解説されています。
 「三ノ丸の東側に位置し、大手道からこの東出丸を経由して三ノ丸に到る。東西約75m、南北約25mの長方形基調の曲輪である。大手道へ対する『横矢』を強く意識し、また、秀吉の居住空間である上山里丸東側の防御をも兼ね備えている。西側櫓台西下で門礎石が確認されている。また、北西隅では、上山里丸で確認された路地に連絡する通路がある。屏風絵には、曲輪内部には建物は描かれておらず、曲輪位置等からは『武者(勢)溜り』的な機能があったことも想定される。なお、地元では『千人枡』と呼称され、ここで兵数を確認して出兵したとの言い伝えがある」と。
 この後、三ノ丸、本丸、馬場、二ノ丸、遊撃丸などを回った後、城の下をぐるりと回る形で、秀吉の居住空間であった山里丸の方に回りました。地元に住むKさんの案内・説明があったので、いろいろ勉強になりました。
 秀吉は当初、朝鮮半島に渡海する予定であり、そのための漢城までの「御座所」普請を諸将に命じています。同図録には、「豊臣秀吉の朝鮮国漢城までの経路と『御座所』普請(計画)」と題する地図が掲載されていますが、壱岐・対馬も含めて25箇所程の「御座所」があります。また壱岐の御座所勝本城跡と対馬の御座所清水山城跡の写真も載っています。
 秀吉が渡海を延期した理由として、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)には、5月7日に行われた玉浦沖海戦での藤堂高虎勢が敗北したという知らせが届いたということが大きかったと指摘されています。すなわち、「この敗報によって、これまでほとんど警戒の必要もなかった朝鮮への航路確保が俄然問題となったのである。秀吉の船隊が海上で攻撃されるような事態は、勝敗の問題を度外視しても、あってはならない。秀吉自身はもとより、この派兵それ自体の権威が傷つくことは絶対に避けなければならなかったからである」と。 制海権を確保できないという状況の変化が、秀吉の渡海延期をもたらしたわけであり、代わりに奉行衆が渡海することになりました。この奉行衆は、三成・大谷吉継・増田長盛だけでなく、長谷川秀一、前野長康、木村重玆、加藤光泰も一緒でした。彼らは「朝鮮半島の奥地さらに明国へ侵攻することを要求した」、いわゆる秀吉の「6月3日令」を携行していました。しかし、この「6月3日令」は、中野氏の同書によれば、7月中旬になって朝鮮半島の情勢悪化と海上での敗退を受けて凍結され、秀吉は「まずは朝鮮半島内の支配を優先するように指示し」ました。
 

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