関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1515 京都探訪267仙洞御所参観8 石橋付近・京都新城の北政所の役割2 幕府の不興

<<   作成日時 : 2015/11/19 21:52   >>

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写真は仙洞御所の中島と庭園の西側をつなぐ石橋付近を10月8日に撮ったものです。参観者はここから道を南に取り、右手に曲がって西に向かうと、鷺の森にたどり着きます。写真に写っている池は、北池です。
 さて、現在、仙洞御所があるところ(仙洞御所が作られたのは江戸時代)に、秀吉は晩年に「京都新城」を作り、秀吉の死後に、北政所が「京都新城」に移り住みました。北政所が「京都新城」で果たした役割について、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)の中で、朝廷との結びつきを深めたことに加えて、「秀吉の祥月命日(十八日)をはじめ、おりに触れて豊国社に参拝し、神楽を催すなど(『舜旧記』)、豊国大明神の記憶が人々から薄れることがないよう努めている」ことが記されています。
 ちなみに、北政所が京都新城に移った慶長4年9月26日から関ヶ原の戦いが起こった慶長5年までの間に、豊国社に参詣した日を、藤田恒春氏の「北政所(高台院)の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)をもとに列挙してみますと、9月28日、10月18日、12月18日、慶長5年1月1日、2月18日、6月18日、8月18日、9月9日、11月21日、12月21日となります。また慶長6年の項には、「豊国社への月詣りを実施し始めた」と記されています。
 ところで、三成は挙兵直後の7月18日に豊国社に参詣しています。豊臣家のために挙兵したことを秀吉に報告し、戦勝祈願をしたのだと思われます。このことから、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が7月17日に出された時には、三成は大坂城に行っていなかったと推定されます(桐野作人氏「島津退き口」)。
 関ヶ原の戦いの後の北政所の役割・行動について、跡部信氏の「秀吉の城と国家構想」(名護屋城博物館発行の図録「肥前名護屋城と『天下人』秀吉の城」所収)の中で、次のように記されています。
 「彼女は公家の依頼をうけて、囚人解放のため幕府の所司代に強引に働きかけたこともあったし(『西笑和尚文案』)、後陽成天皇に仕える女官たちと公家衆が密通事件をおこしたさい、やはり所司代に慎重な対応をとるよう申し入れるようなこともあった(『時慶記』)。彼女は幕府への発言力を公家衆からたよられる存在であり、彼女自身も朝廷のことがらに積極的に関与する姿勢をみせていたのだ。京都新城は、禁裏御所の東南角に隣接していた。彼女は朝廷と文字どおり近所づきあいしながら、良好かつ親密な関係の維持につとめていたのだ」と。
 このうち、密通事件のことについては、藤田恒春氏の「孝蔵主の居所と行動」」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』所収)の「慶長14年(1609)」の項に「6月に朝廷を震撼させた官女密通一件は、高台院の関心を引いたようであり、孝蔵主をして西洞院時慶へ事情を探らせたようである。7月4日、処分が決まったが、(中略)彼女の身辺を脅かすような事態に遭遇していたようだ。(中略)突如孝蔵主の駿河下向が取沙汰された(以上『時慶』)」と記されています。北政所がこのことで、幕府の不興を買ったことがうかがえます。

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