関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1517 小野善生氏講演9 三成の不本意な結果となったフォロワーシップ2 秀次追放?2

<<   作成日時 : 2015/11/23 11:07   >>

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  写真は11月1日に行われた「三成祭」の会場の様子を撮ったものです。この写真も法要の始まる1時間以上前に撮りました。写真の右側に写っているのは、野外ステージの舞台の一部です。石田会館は写真の左手を少し行ったところにあります。今年は三成415回忌ですが、幟に書かれているように「三成生誕455年」でもあります。
  「三成祭」の午後に石田会館で行われた小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったフォロワーシップの一つとして、「豊臣秀次追放」が挙げられていました。前にも述べたように、小野氏は歴史学者ではありませんので、三成についての一般的な知識・逸話をもとに話が進められており、秀次事件も三成が深く関与していたという捉え方によっており、いまだに三成関与説が根深いものがあることを痛感しました。
 三成が秀次事件を画策していなかったということの傍証の一つとして、三成が秀次の家臣たちを多く召し抱えたということが挙げられます。三成が関与していたとするなら、若江八人衆をはじめとする秀次の家臣たちが三成に仕え、しかも関ヶ原の戦いで三成のために戦ったはずはありません(関ヶ原で命を落とした者も少なくありませんでした)。
 拙ブログ記事で、昨年12年に彦根で行われた藤田達生氏の講演会の内容を記しましたが、その講演会と同じようなことを述べた論考「文禄四年政変と近江佐和山城」が、今年10月に発行された「織豊期研究」に掲載されていますが、秀次事件は三成派閥が起こしたという藤田氏の見解が展開されています。その見解に承服できない点については、その時の拙ブログ記事でも述べましたが、今回の論考でも、「大身の旧秀次旗本衆が三成の家臣として編入された」と記されており、いかにも三成が事件を起こして、家臣団を取り込んだという見方が示されています。しかし、家臣団はロボットではないので、自分たちの意思もありますから、自動的に編入されることはなく、三成が事件の首謀者であったら、そのような主君に仕えるとは考えられません。そういう点が、藤田氏の論考には欠けている気がしてなりません。
 藤田氏の見解は、「文禄4年政変は、豊臣政権の専制化を促進し、国内外で強硬路線へと導いた」というものです。しかし、三成ら側近衆を中心とした「専制化」というのは事実ではありません。この点について、大西泰正氏の「『大老』宇喜多秀家とその家臣団」(岩田書院)の中で、秀次事件は「秀吉死後を見越して、幼い秀頼を戴いて機能する政権組織への転化を図るべく、有力大名の政権参加の端緒を開いた出来事であった」「有力大名のうち徳川家康が、一頭地を抜きんでた存在として影響力を漸増させていった」などと指摘されています 

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