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zoom RSS 京都探訪265 石田三成の実像1504 妙法院特別公開1 大仏殿での千僧供養の際に食事を作った庫裏

<<   作成日時 : 2015/11/06 12:47   >>

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 写真は妙法院の庫裏を昨日撮ったものです。特別公開されていたので、家人と見に行って来ました。内部はすべて撮影禁止だったので、撮れませんでした。
 京都駅から歩き、七条通に出て、東に向かい、三十三間堂の北塀の前を通り、その隣にあるハイアット・リージェンシーホテルのロビーで開催中の「京都伝統工芸『琳派展』」をまず最初に見ました。香炉、茶椀、扇子、ペンダント、几帳、象嵌品、七宝焼きの品々などさまざまなものが展示されており、販売されていました。中には200万円を上回る高額なものもありましたが、庶民にも手の届くものも多くあり、その美しさ、繊細さに目を奪われましたし、琳派の伝統が現代にも脈々として受け継がれていることに改めて感じ入りました。
 七條通りの突き当りが、智積院であり、その北が妙法院です。庫裏としては日本で唯一の国宝であり、上が吹き抜けになっており、木々が組み合わさっているのが、下から見上げるとよく見えます。上には階段も作られていますが、上は物見やぐらとしても利用していたということを、学生ボランティアの人が説明していました。
 竈もいくつかありましたが、ここで秀吉は千僧供養の食事を作らせました。もっとも、千人分の食事ですから、当時、竈はもっとたくさんあり、庫裏自体、今の広さの何倍もあったという話もありました。
 千僧供養について、妙法院門跡発行の本「国宝 三十三間堂」(以前も紹介しましたが、三十三間堂を拝観した時に購入したものです)の中に、次のように記されています。
 「文禄4年(1595)に大仏殿は完成し、照高院門主准后道澄を導師として秀吉の亡父母のために千僧供養が行われた。この頃は秀吉の全盛期であり、翌5年の3月と7月にも千僧供養が催され、天台座主青蓮院尊朝法親王が導師となった。(中略)千僧供養(但し、例月は洛中八宗より百口を請じる百僧供とされた)は、最初から慶長20年3月の最後まで、妙法院が管掌した。文禄4年9月25日付の秀吉朱印状は『大仏妙法院』と称しているから、妙法院は大仏の当初から特別な関係だったと思われる」と。
 明治以前の妙法院の境内が今よりずっと広大であったことについて、同書の地図で示されています。すなわち、北は方広寺、豊国神社、国立博物館、七條通りの南の三十三間堂、その東にある養源院、法住寺、ハイアット・リージェンシーホテル、さらにはその東の京都女子大学に通じる女坂から上がっていったところにある新日吉宮、豊国廟までが境内に含まれています。
 文禄4年9月25日付の秀吉朱印状も展示されていましたが、この日に最初の千僧供養が行われています。この供養に三成が参列していたかどうかは定かではありませんが、三成は8月後半から大和の検地に行っていますが、この頃には戻っていたことは十分考えられますから、側近として参列していた可能性は高いと思われます。

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