関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1526 小野善生氏講演11 不本意な結果となったリーダーシップ1 関ヶ原合戦1

<<   作成日時 : 2015/12/08 11:02   >>

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 11月1日の「三成祭」の午後に長浜市石田町の石田会館で行われた小野善生氏の講演会「石田三成公に学ぶリーダーシップ・フォロワーシップ」の中で、三成の不本意な結果となったリーダーシップとして、「関ヶ原の戦い」が挙げられていました。これはある意味、当然な指摘かもしれません。
 不本意な結果となった要因として、講演会では3点が挙げられていました。1点目は、「リーダーシップが振るえるには、必ずしも都合がよくないポジション」であったことであり、三成は「挙兵した時には謹慎蟄居中」であったと説明されていました。
 確かに、三成は奉行職を解かれていましたから、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出された時には、増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行の名で出され、三成の名は入っていません。もっとも、この時は三成は大坂城に来ていないと推定されますので、そのために名が入っていないとも考えられます。私はこの弾劾状の素案は三成が考えたと思っており(家康の罪を逐一並べ立てているところに三成らしさが表れているような気がするからです)、その素案を三奉行たちが表現を和らげて、家康にも敬語を使ったというふうに捉えています。
 それはともかく、毛利輝元が総大将に迎えられ西軍が結成された後は、西軍が出した書状に三成も三奉行と共に署名していますから、正式に奉行職に復帰したと考えられます。
 しかし、三成は官位としては従五位下、官職は治部少輔に過ぎず、所領も19万石の中堅大名でしたから、確かに小野氏が指摘するように、リーダーシップを発揮するには適切な地位とは云えませんでした。三成が生前の秀吉の提案通り、筑前・筑後に転封していたら、所領も格段に増え、兵員動員数も大幅に増加したはずですから、関ヶ原の戦いの状況も変わっていたかもしれません。
 秀吉晩年の頃から豊臣政権は五大老・五奉行による集団指導体制でしたから、そういう意味でも三成はリーダーシップを発揮しにくい事情もありました。藤田達生氏の見解では、三成たちが秀次事件を画策し、政権の専制化を促進させたと論じられていますが、そういう見方には納得しがたいものがあります。
 堺屋太一の見解によれば、秀吉の死後、五大老・五奉行制を破壊してゆく家康に対抗すべく三成が考え出しのが、関ヶ原という巨大プロジェクトであり、そのために豊臣政権を守るという大義名分を掲げ、宇喜多秀家というスポンサーを獲得し、毛利輝元という象徴的人物をかつぎ出しました。それを小説にしたのが、「巨いなる企て」(文春文庫)です。しかし、裏返せば、そうしなければ、250万石の所領を持つ巨大な家康に対抗できなかったわけであり、リーダーシップを発揮するには、無理な面がありました。実際、関ヶ原の戦いではほころびが出ました。結局、毛利輝元は出陣しませんでしたし、南宮山の毛利勢は動かず、小早川秀秋が西軍を攻めたため、敗北するという不本意な結果を招きました。
 

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