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zoom RSS 石田三成の実像1550 青春18切符で太田城跡、和歌山城へ5 小山塚・秀吉の「原刀狩令」

<<   作成日時 : 2016/01/17 11:34   >>

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 写真は和歌山の小山塚を1月8日に撮ったものです。太田城の犠牲者を葬った塚の一つです。もっとも、この塚の位置は元ある場所から移っていることが、そばの説明碑に次のように記されています。
 「当小山塚は昭和27年和歌山市太田538番地の塚跡に建立されましたが、昭和60年東和歌山第一地区区画整理事業により現地に移転したものである 昭和60年7月26日 太田城史跡顕彰保存会」と。
 今の小山塚が建っているのは、来迎寺のすぐ東にあり、本丸があったとされる場所です。
 太田城が開城したのは天正13年4月24日のことですが、22日付で秀吉は朱印状を出しており、その三ヶ条目に刀狩について触れられています。その釈文と現代語訳が、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)に記されています。
 「村々の百姓らが、今後、弓矢や鑓や鉄砲、腰刀など持つことは、禁止する。これからは、鋤や鍬などの農具に慣れ親しみ、耕作に専念するようにせよ」と。
 また山本氏の同書には、この書状について、「これが秀吉の百姓庶民にたいする刀狩の初めであるといってよい」との桑田忠親氏の見解、「この法令を『原刀狩令』と呼び、高く評価してい」るという藤木久志氏の見解も紹介されています。
 刀狩は柴田勝家もしていることが、桑田忠親氏の「太閤の手紙」(講談社学術文庫)の中で次のように記されています。
 「秀吉の刀狩は、近くは柴田勝家の越前一向一揆の刀ざらえに学んだと見られるが、これを実施したのは、根来雑賀征伐の際である。刀さえ取り上げれば一揆は自然と停止されると考えていた」と。
 柴田勝家の「刀ざらえ」については、荒垣恒明氏の「『刀狩』は、民衆の武装解除をめざしたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』(洋泉社)所収)の中でも、次のような記載があります。
 「天正4年(1576)に一向一揆制圧後の施策の一つとして、柴田勝家が越前国で『刀さらへ』を指示したことが知られている。(劔神社文書)『明智軍記』などの戦国軍記に載せられた逸話によれば、勝家は没収した武具で鎖を作り、これを利用して、民衆のために九頭竜川(福井県嶺北地方)に舟橋を架けたという」と。
 勝家の舟橋の鎖については、昨年12月28日付の拙ブログ記事で取り上げました。
 三成たち秀吉側近が中心となって、太閤検地や刀狩令などを実施していきましたが、三成はこの「原刀狩令」にも関わっていたのかもしれません。

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