関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1551  青春18切符で太田城跡、和歌山城へ6 大立寺・高野山に刀狩令・三成と木食

<<   作成日時 : 2016/01/19 11:10   >>

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写真は和歌山の大立寺の山門を1月8日に撮ったものです。この山門は太田城の大門を移築されたものだといわれています。
 大立寺は、JR和歌山駅の南西方向にあり、けやき通りを西に進み、柳通りを南下していきましたが、15分余りかかったでしょうか。このあたりも完全な町中です。この後、西に10分余り歩き、和歌山城に行きました。
 さて、秀吉が紀州攻めをした際、「原刀狩令」を発しましたが、高野山にも発せられました。
 この点について、桑田忠親氏の「太閤の手紙」には次のように記されています。
 すなわち、秀吉は「刀を提出しなければ、高野山も根来寺と同然に焼き払うとばかりに威嚇したのである。そこで高野山もこれを納受し、秀吉の武力の前に帰順したのであった」と。
 また荒垣恒明氏の「『刀狩』は、民衆の武装解除をめざしたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』(洋泉社)所収)の中でも、次のような記載があります。
 「雑賀一揆の制圧と並行して、同じく紀伊国で巨大な軍事力を誇っていた高野山に対して、寺僧らが学問を嗜まずに武具や鉄砲などを持っているのは『悪逆無道』と非難し、これからは弘法大師の置目(おきめ)の如く仏事勤行を専らにせよという指令が出され、高野山側はこれを受け入れる請状(うけじょう)を出している。
 その後、十月には高野山の僧侶たちに対して『武具を進上したのは神妙である』という趣旨の秀吉の朱印状が発給されている(『高野山文書』)。高野山では自主的な武具の進上が行われたのである」と。
 三成と高野山の木食応其上人との関係も、この時あたりから始まったと考えられます。その点について、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。
 「天正13年に秀吉が高野山を攻略しようとした時、(木食応其は)使者の一人となって秀吉に拝謁し、一山の無事を懇願し、和議に成功している。その時、三成は応其のために秀吉の説得に努めている。三成との関係はその時に始まったものと考えられる。その後の応其の足跡を見るとき、三成の行動と一体の動きをしている」と。
 具体的には、白川氏の同書には、九州攻めに木食上人は三成と行動を共にし、島津義久の上洛の際は木食上人が案内役を務めたこと、関ヶ原の戦いの直前には、木食上人は西軍のために阿濃津城、大津城の開城交渉に当たったこと、敗戦後、三成の三男の左吉は木食に託され出家したことなどが記されています。また三成が高野山に経蔵、蔵経を寄進していること、生前に自分の墓を建立していることも書かれています。
 秀吉も高野山を保護し、母である大政所の菩提を弔うために金剛峯寺(当時は青巌寺と呼ばれました)を建立しています。

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