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zoom RSS 石田三成の実像1552 太田浩司氏の講演11 史料に取り上げられていた「武功夜話」・偽書か?

<<   作成日時 : 2016/01/21 21:53   >>

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 昨年12月に敦賀で行われた太田浩司氏の講演会「秀吉奉行としての吉継・三成」の中で、「武功夜話」にある「天正5年10月19日、羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」の記述が取り上げられていました。
 もっとも、「武功夜話」については、偽書だという見解があり、それを史料として使うと学界では集中砲火を浴びるということも述べられていました。確かに、後世の加筆などはあるものの、もともと書かれたものには、史料的な価値があるのではないか、その点を今後よく吟味していかねばならないというのが太田氏の見解でした。
 その「武功夜話」の「羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」の中には、大谷平馬(刑部)の名が、「御大将、羽柴筑前守 竹中半兵衛尉重治」の「御馬廻り衆」として出ています。
 ここには多くの家臣の名が記されていますが、「長浜在番衆御留守居仰せ付けらる者」の中には、「真野左近(助宗)」「一柳勘左衛門(直次)」の名があり、彼らは竹生島奉加帳に名が出て来る人物であると指摘されていました。また「中備え三段」の中に、「宮田喜八郎(光次)」が名がありますが、彼らは秀吉の最初の家臣として確認される人物だということも述べられていました。これらをもってしても、「武功夜話」を偽書として断定するのははばかられるということでした。
 天正5年といえば、三成は18才であり、吉継は従来の説で云えば19才、外岡慎一郎氏の説に従えば、13才です。三成が秀吉に仕官したのは、15才説、18才説がありますが、18才説に従えば、秀吉が播州を出立したのは、三成が仕えてほどない時のことになります。
 「羽柴筑前守播州発向の陣立て覚えの事」には三成の名が入っていませんが、仕えてまもないことを物語っているのかもしれません。
 「武功夜話」の信憑性は今後の検討課題ですが、三成のことも「武功夜話」には描かれており、そこには通説とは違う三成の姿が描かれています。たとえば、秀次切腹事件に際して、三成が不在の間に秀次事件が抜き差しならない事態に発展しており、その事態に苦慮した三成が、秀次の後見人である前野但馬守を擁護し、秀次を救えないとしても、前野たちの助命に尽力していることが書かれています。このことは、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で詳しく記されています。引用されているのは、「文禄3年11月25日、関白秀次公の事に付き前野但馬守、石田治部少輔と面談の事」です。もっとも、その中には「去る5月以来の事、久しく南方薩摩の国に御出張あり」という記述がありますが、この時期に行われた島津検地の際は、三成自身は上方にいて薩摩に行っていなかったという中野等氏の指摘(『石田三成の居所と行動」』)があり、その記述についての疑問は残りますが。
 

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