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zoom RSS 石田三成の実像1553 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成1 忍城攻め・秀次事件の名誉回復

<<   作成日時 : 2016/01/24 11:24   >>

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 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)では、もちろん三成のことにも言及されていますが、先行研究の成果がいろいろと取り入れられ、三成の名誉回復に結びついているところがあります。
 まず忍城の水攻めについて、次のように記されています。
 「忍城を攻撃していた石田三成は、秀吉の指示で『水攻め』を行うこととなった。すでに城内から助命嘆願が出ており、水攻めの衝撃で城中の議論を速やかに開城でまとめさせることを意図してのことであった。20日、真田昌幸は秀吉の命により鉢形を離れ、浅野長政に従って忍城攻めに参加することとなった。ただし、秀吉の思惑は外れ、堤が破れて水攻めは不完全な状態となり、結局、城兵との交戦に陥ってしまっている」と。
 丸島氏の同書には記載がありませんが、忍城の水攻めは秀吉の命令だったとする見解は中井俊一郎によって示されたものです。オンライン三成会編「三成伝説」や中井氏の「石田三成からの手紙」(共にサンライズ出版)にもそのことについて詳しく論じられています。もっとも、水攻めの意図は、「秀吉の力を見せつける」、「政治的効果を狙った、一種のパフォーマンス」だったというのが中井氏の見解です。
 もっとも、今でも、忍城の水攻めは三成が思いついたという通説がまかり通っており、この間も映画「のぼうの城」が放送されていましたが、その通説に基づいて映画が作られていましたし、三成の「いくさ下手」の代表的な例として、この忍城の水攻めの失敗が挙げられている歴史関係の雑誌などが今でも後を絶ちません。
 秀次切腹事件も三成が策謀したという捉え方が、江戸時代以来されてきていますが、それは冤罪だということが、白川亨氏などの三成研究家などによって唱えられ、「三成伝説」の「紀伊・高野山」の章にもそのことを記しました。
 丸島氏の同書にも、「『秀次事件』において石田三成の手は白いのではないか」と記され、その根拠として、「秀次の切腹は秀吉の命令ではなく、秀次の自発的な意思によるものではないか」という矢部健太郎氏の見解が挙げられています。
 「矢部氏も指摘するように、秀次旧臣のうち若江八人衆が石田三成に召し抱えられている点も注意したい。主君を切腹に追い込んだ人間に忠誠を尽くすというのは考えにくいだろう」とも記されています。
 「三成伝説」の「舞兵庫」の章でも、三成が若江八人衆を召し抱えたことに触れました。
 また丸島氏の同書では、「秀次継室一の台(菊亭晴季娘)の産んだ娘が、真田信繁に嫁いだとされている」ということも記されていますが、このことも「三成伝説」で触れました。もっとも、このことについては、「確実な史料で裏付けをとることができない」と指摘もされています。

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