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zoom RSS 石田三成の実像1554 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成2 秀次娘と信繁の間の娘・昌幸の取次

<<   作成日時 : 2016/01/25 11:07   >>

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 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、豊臣秀次の継室である一の台の娘が、真田信繁に嫁いだことが記されていることを拙ブログ記事て前述しましたが、この一の台の娘は、「慶長9年、九度山で信繁の娘御田(おでん)を産んだという。御田は亀田藩主岩城宣隆(いわきのぶたか)【佐竹義重三男】に嫁ぎ、寛永6年(1629)に妙慶寺(秋田県由利本庄市)を建立して信繁を弔ったという。信繁の娘が宣隆に嫁いだことは『岩城家譜』で確認がとれる」と書かれています。
 信繁の娘が岩城宣隆(多賀谷宣家に名乗っていた時代)に嫁いだことは、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)に記されていますし、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記しました。「三成伝説」には、秀次の娘の「助命ができたのは三成の存在を抜きにしては考えられないと白川亨氏は述べている」と記しましたし、「佐竹義宣はかつての石田三成の盟友であり、真田家、佐竹家が協力して、秀次の血筋を守ったといえる」とも書きました。佐竹義宣は、岩城宣隆の兄に当たります。
 この点について、丸島氏の同書では、「果たして、秀次の忘れ形見を匿うようなことが、信繁に可能であったのかどうか。事実とすれば、相当な危険をおかしたといえる」と記されています。
 秀次事件が、大河ドラマ「真田丸」でどのように描かれるか気になるところです。なにしろ、「江」や「軍師官兵衛」では、三成が事件を仕組んだという、江戸時代からの見方が踏襲されており、失望と怒りを禁じえなかったのですが、「真田丸」はそうでなくあってほしいと願うばかりです。前にも触れたように、丸島氏は「真田丸」の時代考証を担当しておられ、「三成の手は白いのではないか」という見解が示されていますので、そういう点からいえば、悪く描かれないのではないかという期待を持っていますが、今までの大河ドラマでもとかくそうだったように、時代考証担当者の意見は往々にして無視され、脚本家や製作者側の意向が優先される傾向にあり、過度の期待は持たない方がいいかもしれません。
 「真田丸」のどの時点で、三成登場となるのかも気になります。早く登場してほしいものですが、史料から見た昌幸と三成の接点ということでいえば、天正13年10月あたりのことだということが、丸島氏の同書に記されています。
 天正13年8月に行われた家康との第一次上田合戦の直前に、昌幸は「上杉景勝を含む複数のルートから羽柴秀吉への接近を図」り、「天正13年10月、昌幸は秀吉から支援の確約を得ることに成功した。取次役は石田三成で、豊臣政権下での昌幸父子の動向を考える上で無視できない」と記されています。これより前に、秀吉のもとで働く三成や大谷吉継の姿がドラマで描かれることも考えられ、早い登場が望まれます。

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