関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1563 秀吉が亡くなった10日後の毛利輝元起請文 三成の加筆訂正

<<   作成日時 : 2016/02/15 10:34   >>

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 堀越祐一氏の「五大老・五奉行は実際に機能していたのか」(日本史史料研究会編『秀吉研究の最前線』【歴史新書y】所収)の中で、秀吉が亡くなった10日後の8月28日に、三成が「毛利輝元の取り込みに成功している」ことが記されています。
 「すなわちこの日、輝元は浅野長政を除く四人の奉行宛の起請文を書いているが、そこには『今回定められた五大老のうち、四奉行と心違いをする者が現れたならば、自分はあなたたちに協力する』とある(『毛利家文書』)。実はこの起請文は輝元が自発的に書いたものではなく、三成の要求によって書かされたものであった」と。
 文中にある、「三成らと『心違い』する可能性のある大老といえば家康しかあるまい」と指摘されています。
 この起請文については、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHKブックス)でも取り上げられ、三成によって内容が訂正加筆されていたことが記されています。
 「輝元の起請文の内容は、『もし今度定められた五人の奉行(いわゆる五大老)の内、秀頼様への謀叛でなくても、増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の意見に同意しない者があれば、私(輝元)は長盛・三成・玄以・正家に同意し、秀頼様へ奉公する』というものだったが、当初の案文では、『秀頼様の取り立てられた衆と心を合わせ、表裏なく秀頼様へご奉公いたします。太閤様のご遺言もこれ以後忘れることはありません』となっていた。輝元起請文の訂正加筆された部分は三成の筆によるものであり、当初の案文に比べ、輝元の連携相手を明記するとともに、敵対する可能性のある者として、輝元以外の大老を明記した点に特徴がある」と。
 光成氏の同書でも、「実際に、輝元と豊臣奉行衆が想定していた敵対勢力は家康である」と指摘されています。
 輝元と三成の結びつきは、この後、家康が秀吉の遺命を破って他の武将と婚姻を結ぼうとした時、糾弾する側として協力しますし、前田利家の死の直後に起こった武断派七将による石田三成襲撃事件の際も、彼らに対抗すべく、輝元と三成は協力して反撃に転じようとしました。もっとも、この計画は大坂城を反対派に奪われてしまったために、実現しませんでしたが。さらに二人の結びつきは、関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍になることにつながってきます。もっとも、輝元は西国では活発な侵略活動をするものの、関ヶ原には出陣せず、それが西軍の敗因には、もなるわけですが。
 三成の文面の訂正をしたということに関して、思い浮かべるのは、慶長5年7月に三成が挙兵した直後に出された「内府ちかひの条々」と、上杉景勝宛てに出したほぼ同内容の石田三成・増田長盛連署条目です。桐野作人氏は、前者には家康に対して敬語が使われているのに対して、後者にはそれがなく、「内府ちかひの条々」を訂正したのが三成だったという見解を示しておられます。私は、「内府ちかいの条々」の原案を作ったのが三成であり、それを出す段階で、長盛・玄以・正家の三奉行らが敬語を加えたのではないかと推測していますが。

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