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zoom RSS 石田三成の実像1566 丸島和洋氏「真田四代と信繁」における三成6 三成挙兵は家康の想定外 

<<   作成日時 : 2016/02/22 10:43   >>

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 丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、慶長5年、家康が上杉攻めに向かったのは三成の挙兵を誘うためだったという見方には、否定的な見解が示されています。
 その根拠として、三成の石高が19万4千石と少ない上、「蟄居の身であるのだから、家康に立ち向かえるはずがない」という点、「家康が動かしたのは豊臣正規軍」であり、「家康にとっては、正規軍の指揮を執るだけで、十分な政治的な意味がある」点などが挙げられています。
 「したがって家康にとって、以後の経緯は想定外と考えたほうがよいのではないか」と指摘されています。
 想定外のこととして、「三成は家康が重用した大谷吉継の説得に成功した」こと、三成が「安国寺恵瓊を巻き込み、大老毛利輝元を大坂に入城させ」、「秀頼という『玉』は三成の手中に落ちた」ことが挙げられています。
 秀吉没後の吉継が家康寄りだったということが、丸島氏の同書に記されていることは拙ブログでも前述しましたが、それは吉継が慶長5年7月垂井までやって来たのは、三成の嫡男重家を上杉攻めに参軍させようと迎えに来たことからもわかります。それだけに、家康のもとに三成と吉継が挙兵したという知らせが届いたのは衝撃だったはずですし、さらにそこに三奉行や大老たちが加わっているということまで続報で知り、大いに動揺したのではないでしょうか。
 中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中で、家康の作戦は「敵対勢力の各個撃破」であり、「全国諸侯中で最大勢力をもつ家康にとって、これこそがリスクのない、最も合理的な戦略であった」と指摘されています。確かに、家康は暗殺事件に際して、五大老の前田利長を屈服させ、五奉行の浅井長政を蟄居に追い込み、次は上杉景勝をたたこうとしていました。
 また白峰旬氏の「新『関ケ原合戦』論」(新人物ブックス)の中では、石田・毛利連合政権が成立し、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」を出したことによって、家康の公儀性は剥奪され、その結果家康は追い詰められたと指摘されています。
 三成の挙兵によって、諸国の大名たちは二分されたのであり、手堅く政権奪取を目指していた家康が、三成の挙兵を見越してこのような冒険に出たとは考えられません。野戦の得意な家康が三成を関ヶ原におびき出したという捉え方と同様、これらは江戸時代に形成された、家康を神格化する徳川史観の表れだと云えますが、今なおそういう捉え方がされているのは残念でなりません。特に歴史小説家や歴史ドラマの脚本家には、従来の徳川史観から早く脱却して、最新の研究成果を取り入れた小説なりドラマなりを作ってほしいものだと切に願います。

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