関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1559 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」3 白峰氏の見解との共通点、相違点

<<   作成日時 : 2016/02/05 11:14   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、戦場が「山中」であることを示すものとして、9月15日付の徳川家康書状、17日付の毛利輝元宛吉川広家書状が取り上げられていますが、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)では、それらの書状のほかに、19日付の松沢喜右衛門尉他二名宛保科正光書状写が挙げられています。
 決戦の場所が、山中だったということをうかがわせるものとして、前にも触れたことですが、山田喜庵が書いた「佐和山落城記」があります。その中で、関ヶ原の戦いの後、佐和山城から脱出した山田隼人が息子の宇吉郎(のちの喜庵)を背負って、「山中」へ落ち延びることが記載されています。喜庵のご子孫である山田喜雄氏は、この「山中」は関ヶ原の「山中」であり、三成を探しに行った(その時点で三成は安否不明でした)のではないかと推測されています。その山田氏の見解を聞いた時に、すでに白峰氏の同書を読んでいたので、山田隼人らが「山中」に来た理由も納得しましたし、決戦の場が「山中」であったことに信憑性があると思いました。
 どういう経緯で決戦が始まったかについては、前述したように、西軍と小早川秀秋との間に戦闘が始まり、そこに東軍が襲いかかったとする高橋氏の見解と、西軍と東軍の戦いが始まった時に小早川秀秋も東軍側として参戦したという白峰氏の見解との間には違いがあります。西軍と東軍の間で戦いが始まったとする史料として、白峰氏の同書では、極月13日付坪内定次宛生駒利豊書状が挙げられています。
 同書状では、関ヶ原合戦は、福島隊と宇喜多隊の鉄砲の撃ち合いで始まり、すさまじい白兵戦になったことが具体的に記されています。
 決戦の経緯及び秀秋がいつの時点で参戦したのか、さらには参戦武将や布陣図まで含めて合戦自体の全体像について、改めて検討し直す必要性を感じます。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章は、従来の説に従って記しています。もっとも、三成たち西軍が関ヶ原に移動したのは、家康におびき出されたのではなく、秀秋の動きを牽制するためであったとする中井俊一郎氏の見解を紹介しています(中井氏の見解は同書の「関ヶ原合戦の真実」の章で詳しく論じられています)し、家康が鉄砲を撃ちかけて秀秋に裏切りを促したという、いわゆる「問い鉄砲」があったとする従来の捉え方に対してもそう断定するのではなく、「家康は、松尾山に鉄砲を撃ちかけさせたという」と書き方にしました。
 高橋氏の見解でも白峰氏の見解でも、むろん、家康によって西軍が関ヶ原におびき出されたということや「問い鉄砲」があったということは否定されており、後に作られた虚構であったと指摘されています。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1559 高橋陽介氏「一次史料にみる関ヶ原の戦い」3 白峰氏の見解との共通点、相違点 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる