関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1587「三成フェス」5 小和田哲男氏の講演「今、石田三成を再評価する」3 人となり

<<   作成日時 : 2016/03/31 16:47   >>

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 26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、「三成の人となり」として「清廉潔白な人がら」、「島左近を高禄で召し抱える」、「三成の危機管理能力」、「領主として誠実な百姓との接し方」の4点が挙げられていました。
 「清廉潔白な人がら」を示すこととして、三成の居城であった佐和山城の質素さが取り上げられていました。東軍が佐和山城を落城させた後、城内の様子を見ると、豊臣政権で権勢を誇った者の城としては非常に質素で、びっくりしたという話です。
 この点について、城内には金銀が少しもなく、三成は殆ど貯えを持っていなかったということが、家康の侍医である板坂卜斎の書いた「慶長年中卜斎記」に記されています(今井林太郎氏「石田三成」【吉川弘文館】)。
 今井氏の同書には、これと関連して、関ヶ原の戦いの直前の9月12日に出した増田長盛宛三成書状の記述が取り上げられています。すなわち、「金銭米銭を使うべきはこのときであって、自分は持っているだけを、このところ出してしまい、人も召抱えたので、自分の逼迫の状態を推察願いたいと述べている」と。
 私は拙ブログ記事で前述したように、この三成書状は、果たして本人が書いたものかどうかという疑問を持っていますが、確かに佐和山城に関する東軍側の記述と三成書状の記述は呼応する点があります。
 三成が関ヶ原の戦いで、すべてを出し尽くしたというのは事実でしょう。これも豊臣政権維持のためであり、危機意識の高さの表れです。家康が会津攻めに行く時には、淀殿は軍資金を与えましたが、三成が挙兵した時には、軍資金を出していませんから、余計経済的には逼迫していたものと思われます。
 「島左近を高禄で召し抱える」ということについては、三成が四万石の領主だった時に、一万五千石もしくは二万石で雇ったという、これもよく知られた逸話ですが、小和田氏の講演会ではその逸話の真偽についてはともかく、三成が当時浪人していた島左近を高い俸禄で雇ったのは事実であると述べられていました。もっとも、筒井家に仕えていた島左近と、三成に仕えた島左近が別人であり、島左近は代替わりしていたという坂本雅央氏の見解については触れられていませんでしたが。
 「三成の危機管理能力」ということについては、大坂城が洪水になった時、三成が咄嗟の判断で蔵にある米俵を使って堤の決壊箇所を防いだという逸話が紹介されていました。この逸話に関しては、第2部のパネルディスカッションで、三成は洪水がおさまった後、農民に土嚢を作らせて、その米俵を交換させたという続きの部分があることを補足説明されていました。これもどこまで事実かわかりませんが、三成の才気を語る逸話の一つです。
 

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