関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1590「三成フェス」8 小和田哲男氏の基調講演6 家康の根まわしに負けた三成

<<   作成日時 : 2016/04/03 13:58   >>

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 3月26日に滋賀県立大学で行われた「三成フェス」の小和田哲男氏の基調講演「今、石田三成を再評価する」の中で、前述したように「関ヶ原の戦いと三成」という項目で、「『負けるとわかって突っ込んだ』はまちがい」だという点について言及されていましたが、よくある捉え方として、大谷吉継が負けるとわかっていた戦に、三成への友情に殉じて加わったとされることが少なくありません。しかし、これについては、拙ブログでも以前にも触れたように、吉継も勝算があったからこそ、三成の挙兵に加わったものと私は考えています。戦いに加わるのは吉継だけではなく、一族郎党すべてですから、負ければ彼らの命も所領もすべて失ってしまいます。そういう危険を、友情だけのために敢えて冒すはずはないという思いがしてなりません。
 講演会では次に「家康の根まわしに負けた三成」について言及されていました。家康は会津攻めをやめた後、江戸にとどまったまま恩賞の約束をする書状をいろいろな大名に160通程送って、根まわしに励み、それが功を奏したと説明されていました。
 もっとも、三成も家康同様、各大名に書状は送っていたはずですが、家康が天下を取りましたから、大名はそれを処分したのではないでしょうか。大名が三成からの書状を処分したことについては、講演会の最初で触れられていましたが、関ヶ原の合戦前にも、三成は書状を各大名に書いていたはずです。2000年に放送された大河ドラマ「葵 徳川三代」の中で、ナレーター役の徳川光圀が、三成も合戦前に家康と同じようにたくさんの手紙を大名に書いたはずだが、こういうものが残っていると都合が悪いので処分されたはずだと言っていました。
 三成もたくさんの書状を書いたと思うのは、多数派工作をするのに有効な手段だということを彼もよく承知していたと考えられるからですが、それに加えて三成は筆まめだったということもあります。血判起請文も三成が加わると文面が長くなるということが矢部健太郎氏によって指摘されています(「秀次事件と血判起請文・『掟書』の諸問題」【『消された秀吉の真実』[柏書房]所収)。現に関ヶ原の戦いの直前、三成は真田昌幸などに対してだけでも、7月30日、8月5日、8月6日と立て続けに、しかもかなり長い詳しい書状を出しています。これは三成が真田家を特別に考えていたからですが、それ以外にも諸大名に勧誘の書状を数多く出していたとしても不思議ではありません。西軍は内府ちかひの条々を各大名に送って、書状作戦を取っていますから、三成はそれ以外にも書状を頻繁に出していたのではないでしょうか。
 とはいえ、家康の根まわしが功を奏したというのも事実であり、秀秋は東軍の味方をしましたし、南宮山の毛利勢などは動きませんでした。講演会では、三成は秀秋の動きが怪しいと警戒していたものの、南宮山の毛利勢たちは自分たちの味方をしてくれるものと思っていたと説明されていました。

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