関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1631 大河ドラマ探訪372「真田丸」36 三成の描き方19 落首事件をめぐって2 

<<   作成日時 : 2016/05/25 18:18   >>

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 大河ドラマ「真田丸」で描かれていた聚楽第の落首事件ですが、大河ドラマ「江」でこの事件のことが描かれていた時に拙ブログ記事で触れたように、福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)に、事件の内容、経緯について具体的に記されています。典拠は「言経卿記」「鹿苑日録」「多聞院日記」などです。その処分の実態は、「真田丸」で描かれていた以上にはるかに残酷なものでした。
 まず門番17名が死罪になりましたが、「真田丸」では2月25日の夜に磔になったと説明されていましたが、実際は「2月29日に鼻を削ぎ、3月1日は耳を切ったうえで、2日に逆さ磔に処すという3日間にわたっての残忍極まる処刑であった」と福田氏の同書には記されています。もっとも、「真田丸」でも、秀吉が処分の前に「犯人を捜し出して、鼻と耳を削ぎ、磔にした上で首を刎ねる。それでも許せん。そいつの親戚縁者ことごとく磔じゃ」と秀次に向かって言っていました。
 「真田丸」では、こういう理不尽な処分に対して、三成はやりきれなさに酒を飲んでいましたし、三成夫人が信繁に、「旦那様は一人でずっと酒を飲んでいらっしゃいます。今夜はいくら飲んでも酔えないと」と明かしてもいました。こういう三成の思いが最後は爆発して、秀吉に諫言するという展開につながっていました。
 さらに「真田丸」では、落首の犯人がわからないため、信繁が死んだ尾藤道休を犯人に仕立てて、大谷吉継がその首を斬って、三成が秀吉にその首を差し出していましたが、この経緯について、福田氏の同書には次のように記されています。
 「3月1日には石田三成と増田長盛が本願寺に到り、牢人の尾藤道休の引き渡しを要求したため、(本願寺門跡の)光佐はこれを生害してその首を差し出した」と。
 「真田丸」でも、三成は本願寺に道休を引き渡すよう申し出たところ、本願寺からこの首が届いたと秀吉に説明していました。
 「真田丸」ではその前の場面で、秀吉は咎人が名乗り出るまで町人一人ずつくじで選んで磔にすると言っていると三成が述べ、大谷吉継が「ありえん」と言っているところへ、尾藤道休の死の知らせが入り、信繁が道休に罪をかぶせるという策を思いつくという展開になっていました。その策が功を奏したため、くじによる処分はなかったという描き方になっていましたが、実際はそうではなく、くじによる処分は行われていたことが福田氏の同書に記されています。
 すなわち、「3月9日には石田三成が検使として派遣され、天満森で63人が捕らえられた。そのうちの3人は自害し、残る60人は京都の六条河原で磔に懸けられた。(中略)
 下手人かどうかの判断は『くじ』によるものだったらしく、興福寺の多聞院英俊は『運次第也、さてさて不便事也、一向無罪仁共也、アサマシアサマシ』とあきれ果てている」などと。
 

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