関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1634 今福匡氏「毛利勝永」6 関ヶ原合戦前後の動向5 毛利吉成は清正説得に九州へ

<<   作成日時 : 2016/05/29 11:36   >>

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 今福匡氏の「毛利勝永」(宮帯出版社)には、勝永の父である吉成の事績についても、詳しく記されており、いろいろと新しい知見を得られました。
 関ヶ原合戦の際、勝永は伏見城陥落に活躍し、その後、安濃津城攻めに加わり、関ヶ原に転身しました(南宮山?)が、吉成の方は伏見城陥落後、奉行衆の意向を受けて加藤清正を説得するため九州に下向したと。もっとも、吉成自身は自らは熊本に行かず、小倉にいて、使者を派遣したことが、9月7日付の本多正信・西尾吉次宛の加藤清正書状の中に記されています。すなわち、「清正のもとへ毛利吉成からの書状は届けられたが、吉成自身は小倉に在った」と。この清正書状には、「大坂から妻室が熊本へ下向したこと、大坂の奉行衆から参陣を要請されたが、黒田如水と相談して、応じなかったこと」なども記されています。
 吉成が小倉を動けなかったのは、「黒田如水が小倉攻撃の構えをみせており、小倉城ではこれを案じている」との記述が「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」にあることが、今福氏の同書に記されています。
 吉成が小倉城主になったのは、九州攻めの後の天正15年(1587)のことであり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦まで続きましたが、14年に及ぶ長さだったにもかかわらず、小倉でも毛利吉成・勝永のことはあまり知られていないことも指摘されています。
 その点、三成は佐和山城主になったのは文禄4年(1595)のことであり、城主だったのは5年というわずかな期間だったにもかかわらず(三成は、その前に佐和山城の代官を務めていたとされていますから、その期間を含めれば9年になりますが)、地元で顕彰が進んでいます。
 小倉や勝永が夏の陣で活躍した大坂でも、毛利吉成・勝永親子の顕彰が進むことを願っていますし、この今福氏の本の出版や大河ドラマ「真田丸」でその機運が高まればと思います。今福氏の同書の「あとがき」に2014年に有川淳一氏の主催で大阪で開かれた「毛利勝永座談会と見学会」、その翌年にやはり有川氏の主催で小倉で行われた「小倉城主毛利吉成・勝永親子座談会」が本を書くきっかけになったことが記されています。
 小倉城主となった吉成が博多の商人の神屋宗湛との交流が深かったことが、今福氏の同書に記されています。三成も神屋宗湛との結びつきが深く、三成が博多町奉行を務めて以来の関係でした。吉成が「宗湛日記」にしばしば登場し、宗湛の茶会に招かれていることが記されています。天正17年6月24日に一人招かれ、同年7月19日には小早川隆景の居城である名島城で、吉成が主人になり、隆景に茶を振る舞いました。なお、この時期、三成は在京し、本庄繁長に代わって上洛した千勝丸の奏者を務めたり、上杉景勝の佐渡平定を了解する秀吉朱印状の取次をしたり、芦名義広に援助をし上洛を求めたりしています(中野等氏「石田三成の居所と行動」)。 

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