関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1644 「知恵泉 石田三成」4 「誰にでもわかる明快なプレゼンをせよ」2

<<   作成日時 : 2016/06/08 17:56   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 「知恵泉 石田三成」の中で、三成の知恵として、「誰にでもわかる明快なプレゼンをせよ」が取り上げられていましたが、その例として挙げられていたのは、昨日付の拙ブログ記事で取り上げたように、「掟書」と「内府ちかひの条々」でした。「掟書」については、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)や中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)などの中で詳しく論じられています。
 番組では、「掟書」を所蔵している成菩提院の住職さんが次のように語っていました。
 「(三成)は農民が暮らしやすい方法に持って行ったんじゃないかなと。公平性というんでしょうか。慕われた人物だろうと(思います)」
 「内府ちがいの条々」については、秀吉の死後家康が行ったことの問題点を指摘した書状であり、簡潔な箇条書き形式を取り、さまざまな角度から論じているとして、その具体的な中身が紹介されていました。まず禁じられている大名同士の政略結婚を家康が行っているという法令違反、そして大坂城に人質として預けられた大名家の妻子のうち家康が自分に近しい者の妻子だけを返しているという不平等、さらに本来五大老五奉行による合議制で決めることを家康が一人で決めているという独断性など、13もの問題点を列挙し、その上で家康には秀頼公を天下人にする気はないと結論づけ、家康討伐軍に参加することの正当性を明快に記していると述べられていました。この家康の非を客観的に唱える書状によって、それまで家康を恐れ、見て見ぬふりをしていた全国の武将たちの義を通すことを誇りとしていた心に火をつけ、その結果、全国の109家の大名が三成の同志として名乗りを上げ、その数は家康の東軍を上回り、その知らせを聞いた家康は顔面蒼白になったと伝えられていると説明されていました。
 これはいささか三成に対する好意的な見方であり、実際は義を重んじる武将たちばかりではありませんでしたし、西軍の中にも迷っている武将もおり、関ヶ原の戦いで裏切った武将もいました。しかし、三成たちが「内府ちがひの条々」を出すことによって、上杉攻めに向かった家康の公儀性が剥奪されたという白峰旬氏の見解があります(「新『関ケ原合戦』論」)。ここからは、家康が三成の挙兵を見越して、大坂を離れたという従来からの三成おびき出し説的な見方は否定されます。
 「内府ちがひの条々」は、増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行の名で出され、三成の名は記されていませんが、そのことについては、三成が奉行職を解任されており隠居の身の上であったからだということがかねてより言われていますが、そもそもこの書状を出した7月17日の時点では、三成は大坂に来ていなかったということが桐野作人氏によって指摘されています(「島津退き口」)。しかし、三成が「内府ちがひの条々」の草稿を書いたのは確実だと思っていますし、ほぼ同様の内容を記した、上杉景勝宛の増田長盛との連署状があることが、桐野氏の講演会で指摘されています。「知恵泉」でも、「掟書」も「内府ちがひの条々」も13ケ条の箇条書きという点で共通していることが示されていました。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1644 「知恵泉 石田三成」4 「誰にでもわかる明快なプレゼンをせよ」2 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる