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zoom RSS 石田三成の実像1665大河ドラマ探訪394「真田丸」58 黒田基樹氏講演4 慶長2年8月20日付書状

<<   作成日時 : 2016/07/14 11:25   >>

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 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」の中で、真田信幸に宛てた私的な三成書状13通について取り上げられ、詳しく論じられていました。
 これらの三成書状は、長浜城歴史博物館発行の図録「特別展覧会 石田三成 第2章」で取り上げられ、2000年に行なわれた展覧会で実物を見たことがありますし、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でもこの書状について取り上げられています。
 13通の書状のうち、月日が記されているものが3通、日付だけが記されているものが8通、日付のないものが2通ありますが、月日が入っているもののうち2通の年が確定したことが明らかにされていました。その根拠となったのは、信幸も三成も共に伏見にいたところなどからわかったと述べられていました。
 年次比定された書状の一通は、慶長2年(1597)8月20日付のもので、講演会のレジュメには次のように現代語訳されています。
 「先日書状をもらったが、すぐに返事を出すべきところ、御使者がみられたように、自分は出かける途中であったため遅くなり、内容を承知していない、御城(伏見城)の御番のために話すことができなかったが、御番も終わったので、面談して内容を承りたい」と。
 三成は伏見城に治部少輔丸の屋敷を持っていましたから、御番とあるのは治部少輔丸に詰めて政務を執っていたのでしょう。政務を執らない時は上屋敷の方にいたのだと思われます。当時の城外の屋敷の地図も前の大スクリーンで示されていましたが、真田信幸の屋敷の西隣が小西行長の屋敷、さらにその西に宇喜多秀家の屋敷があり、宇喜多屋敷の南隣が徳川家康の上屋敷、そのすぐ南に三成の上屋敷がありましたから、真田信幸の屋敷と三成の屋敷とはそれほど離れていませんでした。豊臣時代の伏見城内外の地図は、新創社編の「京都時代MAP 安土桃山編」(光村推古書院)に掲載されています。これらの地図は、山田邦和氏の研究成果「第3期伏見城(豊臣木幡山城)城下町推定復元図」を使用して作成されています。
 この頃の三成の行動ですが、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所収)には、次のように記されています。
 「朝鮮半島では7月15日夜半に唐島沖で海戦が行われ、翌16日付でこの戦いの顛末を知らせる連署注進状が発せられる。この報せが8月9日に秀吉のもとに到着。また、南原城陥落を報せる8月16日付の連署注進状は9月13日に到着する。それぞれの内容をうけた秀吉朱印状に、増田長盛・長束正家・前田玄以らとともに取次として三成の名前がみえる」と。
 三成が朝鮮半島の情勢を受けてその対応に追われていたことがうかがえます。

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コメント(2件)

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たった今、BSの歴史捜査という番組で三成様の様々な生き様を紹介していました。前半は実は戦下手ではなく、秀吉の尻拭いをしてきたことなど…私の思い描いていた素敵な三成様を高評価!後半では佐和山城の堀の発掘現場でわかる家康の三成様への恐れなど詳しくわかりやすく紹介していました。取材協力者も取材地(石田会館や観音寺、佐和山や静岡など)も盛り沢山で私も一人で盛り上がってしまいました。今晩はとても眠れそうにありません。やっぱり三成様はカッコイイ♡
tokebi
2016/07/14 22:27
tokebiさん、コメントありがとうございます。「歴史捜査」は私も予約録画していたのですが、また見ていませんでした。しかし、tokebi さんのコメントを拝見して、急いで見ました。確かに、三成の名誉回復がはかられていましたね。江戸時代に歪められた姿を正そうという意欲に満ちていて、ようやくここまで来たのかという思いでした。佐和山城の徹底的な本丸破壊の状況を説明するのが、何回か講演会を聴いた林昭男氏というのもいい人選だと思いました。
 文禄・慶長の役でも三成は講和に尽力していたというのも番組で描かれていた通りですが、ただ三成が清正を蟄居に追い込んだという描き方は従来通りだと思いましたし、残念に感じました。清正が蟄居していたということに対しては最近は否定的な見解が示されています。
 tokebi さんの三成愛がよく伝わってきました。「歴史捜査」に関しては、拙ブログでも取り上げたいと思っています。
 今後ともよろしくお願いします。
石田世一
2016/07/17 12:24

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