関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1669 大河ドラマ探訪398「真田丸」62黒田基樹氏の講演8 三成より誘いの書状

<<   作成日時 : 2016/07/18 10:32   >>

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 長浜で行われた黒田基樹氏の講演「真田家と石田三成」で、「関ヶ原合戦での真田家と石田三成」について述べられていましたが、まず慶長5年(1600)7月21日、会津攻め従軍のため下野佐野の犬伏・天明に在陣していた真田家のもとに、三成から家康討伐を働きかける書状が届き、前後して三奉行が連署した「内府ちかひの条々」が届いたと説明されていました。
 昌幸はすぐさま応諾を返事、次男信繁とともに会津攻めの軍から離脱し上田城に戻ったものの、嫡子信幸はそのままとどまりましたが、その際、三者の間でいわゆる「犬伏の密談」が行われたのとするのは、江戸時代の創作だと指摘されていました。密談の場に勝手に入った家臣の河原綱家が下駄を投げつけられて、前歯が欠けたということが、「綱家家記」に記されているものの、この時、綱家は大坂にいたので、この記述は創作であるということでした。
 「昌幸が21日付で三成に宛てて送った書状には、『あらかじめ報されていなかったことに、腹立ちしている』旨を記している。27日に三成のもとに到着、三成は、30日付で昌幸に返事」と講演会のレジュメにありますし、そう説明されていました。
 もっとも、三成宛の昌幸書状は残っていず、30日付の昌幸宛の三成書状に、このことについて、次のように記されています。現代語訳は笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)に拠りました。
 「去る21日に二度にわたって出されたお手紙が、27日に江佐(近江佐和山)に着きましたので、拝見いたしました。(中略)
 最初に今度の意向ですが、かねてお知らせもしませんでしたので、ご立腹も無理ないことです」と。
 この理由について、そのすぐ後に三成は記していますが、その部分は講演会のレジュメに次のように現代語訳されています。
「家康が大坂に在るなかで、諸侍の心がどうしても測りがたかったので、言うことを遠慮していた。とりわけ昌幸はとても『公儀』に対して粗略のない方なので、世間がこのようになったからには、どうして滞りがあろうか。何にしても隠密の時に申し入れたとしても、世上がついてこなければ、昌幸が納得したとしても、仕方のないことと考えていた。しかし現在は後悔している。けれどもそのことはいまや不要であり、いろいろと言っても、『太閤様御懇意』を忘れず、今回の奉公を求める」と。
 「現在は後悔している」と記すところに、三成の気遣いがよく表れていると講演会では説明されていましたが、三成の細やかさは随所に現れていますし、慎重さもうかがえます。

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