関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1664 特別展「秀吉の五奉行と関ケ原合戦」2 奥の谷から出土した桐紋銅製紐金具

<<   作成日時 : 2016/07/02 21:22   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 滋賀県立安土城考古博物館の特別展示「秀吉の五奉行と関ケ原合戦」に、佐和山城遺跡出土遺物が展示されていましたが、その中に「桐紋銅製紐金具」がありました。展示解説シートには、「桐紋銅製紐金具」について次のように説明されています。
 「銅板を五三桐にかたどり、花や葉を蹴彫(けりぼり)で表現しています。さらに、葉は葉脈の部分が無地ですが、その間を魚々子(ななこ)で表現しています。表面に着色などの痕跡は観察できませんが、本来、鍍金(ときん)などが施されていた可能性があります。左右の花と左側の葉が欠損していますが、縦5cm、横残存3.7cm、厚さ0.15cm、中央に一辺0.6cmの方形の孔が穿(うが)たれています。
 中世の経箱や手箱の多くは、蓋を閉じて紐を掛けるもので、身の長側面の中央に紐を固定する紐金具が取り付けられており、出土金具はこれに相当します。技法的には桃山時代の特徴があり、土器類から判断される遺構の時期が16世紀後半であることとも合致します。
 『菊紋』は古くから皇室の紋として幕府や民衆に広く認識され、『桐紋』の五七桐は『菊紋』の替紋でした。
 天皇より任命された統治者は家来に『桐紋』を贈与したようです。桐紋銅製紐金具の出土は、この金具が取り付けられた手箱を使用できた家臣の身分の高さを示しています。『桐紋』を好んで用いた秀吉が家臣である三成にもその使用を許し、さらに三成の家臣も使用を許されたとも考えられます」と。
  この「桐紋銅製紐金具」は、平成21・22年度の発掘調査で佐和山の東側の奥の谷で発見されたものであることが、この日の午後に行なわれた林昭男氏の講演会「石田三成と佐和山城」の資料プリントに掲載されています。この地区は、ブロック状の地割が行われ、侍屋敷があったことがわかると講演会で指摘されていました。
 奥の谷は三の丸を下ったところにありますが、拙ブログ記事でも以前記したように、一昨年、オンライン三成会の会員二人と二の丸、三の丸に登り、三の丸から奥の谷の方に下りてきました。登ったのは佐和山の大手口からでしたが、本丸への登城道を上り、途中から二の丸の方に方向転換しました。
 もっとも、二の丸、三の丸方面は、通常の佐和山ハイキングコースからは外れており、きちんとした道があるわけではありませんので、行くときは十分な注意が必要です。われわれも地形図、縄張り図を手掛かりにして、道に迷わないようにしました。
 現在佐和山の東側で侍屋敷跡が確認されているのは、奥の谷近辺、大手口周辺の殿町あたりですが、拙ブログ記事でも記したように、三成や嶋左近の屋敷などがあった佐和山の西側ではまだ屋敷の跡は見つかっていません。今後の調査に期待したいところです。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1664 特別展「秀吉の五奉行と関ケ原合戦」2 奥の谷から出土した桐紋銅製紐金具 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる