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zoom RSS 石田三成の実像1668 大河ドラマ探訪390 「真田丸」54 三成・吉継は朝鮮出兵に反対の立場 

<<   作成日時 : 2016/07/07 11:54   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第25回「瓜売」は、文禄の役のあたりのことが描かれていました。秀吉が朝鮮、明を攻めると言い出したことを聴いて、大谷吉継は「ようやく日の本からいくさがなくなったというのに、殿下は鶴松様を亡くされておかしくなってしまわれたのではないか」と怒ったのに対して、真田信繁は「それが違うのです」と言い、おかしくなったわけではない秀吉の真意を説明していました。
 すなわち、「太平の世になったからこそ、明を討たねばならぬのだ。人に仕事を与えねばならぬ。人は仕事がなくなるとろくなことを考えぬ。明国を攻めれば、太平をひっくり返そうなどと考える者はいなくなる。そのためのいくさよ」と。
 そういう信繁の説明をそばで聴いていた三成は、「そういうわけだ。忙しくなるぞ、刑部殿」と吉継に言うと、吉継はうなずいていました。三成は吉継と陣立てを考えていましたが、三成が陣立てを考えるのは北条攻めにおいても同じでした。三成がそういう役目を果たしたというのは創作ですが、ドラマでは三成が朝鮮出兵をどう考えていたかは判然としません。北条攻めを「惣無事」をだいなしにするものだと考えていたという捉え方をドラマでもしていましたから、朝鮮出兵には内心、反対という立場なのかもしれません。
 嶋井宗室が三成と図って、朝鮮出兵に反対し、秀吉の勘気を被ったという記述が「博多記」にありますが、大谷吉継も反対だったのではないかという見解が、中井俊一郎氏の「天下の貨物の七割は浪華に…堺の変革、博多の復興で新たな都市空間へ」(『歴史街道』七月号所載)で指摘されています。その根拠として挙げられているのは、天正15年6月の「宗湛日記」の記述です。吉継が秀吉の機嫌を損ねて叱責され、香椎村に隠れていたのを、三成と宗湛が、吉継を舟に乗せて姪浜(めいのはま)に送り、興徳寺に匿ったという内容です。吉継が秀吉の勘気を被った原因について、中井氏の同書では、次のように記されています。
 「吉継は、秀吉の朝鮮出兵構想を批判したのかもしれない。貿易で栄えてきた博多にとって、秀吉の朝鮮出兵は、明・朝鮮との交易路が閉ざされてしまう一大事である。一旦は兵站拠点として特需に沸いたとしても、長期的には博多発展の道を遮ってしまう。吉継はその矛盾を秀吉に問うたのかもしれない」などと。
 中井氏の同書には、上述の「博多記」の記述も取り上げられ、三成も吉継と同様の思いを持っていたと指摘されています。私も三成や吉継が朝鮮出兵に反対だったとする中井氏の見解に全面的に同意します。
 もっとも、この時の吉継が秀吉の怒りを買った理由については、三成の妻の伯父に当たる尾藤左衛門尉が九州攻めの際、援軍として来なかったいう不手際で、秀吉によって改易、追放処分になったことを諫言したからだという見解が白川亨氏によって示されています(『真説 石田三成の生涯』【新人物往来社】)。このあたりは今後の検討課題だと思われます。
 

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