関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1691 シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」1谷口央氏の講演1 太閤検地の実態

<<   作成日時 : 2016/08/13 10:49   >>

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 11日に長浜ロイヤルホテルで、シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」が行われ、聴きに行きました。谷口央氏による基調講演、鳥津亮二氏、外岡慎一郎氏によるスポット講演の後、彼らをパネラー、太田浩司氏をコーディネーターとしたシンポジウムが行われましたが、敦賀の学生団体と長浜の「すずめの学校のみなさん」による、それぞれ大谷吉継、石田三成の生涯をコンパクトにまとめた紙芝居も上演され、多彩な内容でした。
 谷口氏の講演は「関ヶ原への道ー西軍諸将を中心にー」と題するもので、「なぜ短期間で豊臣政権は崩壊したのか」という問題について、史料の記述を使って説明されていました。
 まず「太閤検地の実態」について論じられていましたが、史料として、天正18年の奥州仕置の際に、「知行方を検地して大名台所入をしっかり確保し、在京(出費)をまかない続けられるように」との記述(『岩手県中世文書』)、「検地奉行として、会津は豊臣秀次、白河及びその近辺は宇喜多秀家を遣す…不届き者がいる場合は、城主であれば城ごと、百姓であれば郷ごと皆殺しとする。日本中そのようにし、山の奥、海はこぎ着けるところまで亡所となっても構わないので、それを達成すること」という記述(『浅野家文書』)が挙げられています。
 島津氏検地については、「大名台所入が経済的に苦しいとのことなので、大隅・薩摩両国の寺社領を無くし(減少させ)大名蔵入りとすることを命じる」という記述(『島津家文書』)が挙げられています。島津氏検地は三成が担当しましたが、中野等氏は三成自身は現地に行かず、三成の家臣を派遣したと指摘されています(『石田三成の居所と行動』)。
 講演では、太閤検地の目的は、大名家中に対する権力強化、その達成後秀吉への臣従強化、大名家の経済的強化、大名の領国支配強化と指摘されていました。
 その具体的な内容が、講演の中の「豊臣政権と『取次』」のところで述べられていました。大幅な給地削減が行われ、大名の経済的な強化につながったこと、島津家の重臣であり三成とのパイプ役であった伊集院幸侃と三成によって実際の決定が行われたこと、大名への忠節奉公のみが加増の対象になり、それが大名の権力強化につながったこと、大名側の担当者は、その権限を背景に大名家中で政策を実行し、豊臣政権の具体的な実行者となり、その権限集中が家中騒動の主役になったこと。
 「大名側の担当者」とは、この場合伊集院幸侃のことであり、検地の結果8万石が与えられましたが、これに不満を募らせた島津義弘の息子の忠恒によって殺され、そのことが庄内の乱につながりました。この島津領検地のことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「島津義弘」の章で、少し述べました。
 検地によって、島津氏の知行は24万石から55万9500石に増え、確かに大名の経済的強化につながりました。その一方で、豊臣家の蔵入地1万石、検地を行なった三成にも6200石、細川幽斎にも3000石の知行が与えられました。
 

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