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zoom RSS 石田三成の実像1697  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」7 鳥津亮二氏の講演3 関ヶ原までの行長

<<   作成日時 : 2016/08/19 10:23   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」の中の、鳥津亮二氏の講演会で、関ケ原合戦前後の行長の動向について説明されていましたが、昨日の拙ブログ記事の続きです。
 8月上旬、三成らと「美濃口」に布陣。行長の兵2900、行長の「与力四人」の兵4000(『備口人数』、真田家文書)
 この「真田家文書」の「備口人数」が、長浜市長浜城歴史博物館発行の図録「石田三成と西軍の関ケ原合戦」に掲載されています。これは8月5日付の真田昌幸宛の石田三成書状に記されたものであり、次のように解説されています。
 「『伊勢口』には毛利輝元(安芸中納言)・宇喜多秀家・立花宗茂・長束正家等7万9860人の西軍主力部隊を派遣している。これは全軍の約43%にあたり、家康西上前における伊勢国内の東軍勢力一掃が最大目的であったことが判る。次の『美濃口』には、石田三成・織田秀信(岐阜中納言)・小西行長等2万5700人を配し、加賀国の前田利長に備えるため『北国口』には、大谷吉継・木下利房等3万100人を置いている。『瀬田橋爪在番』(近江国瀬田橋守備隊)には、太田一吉・垣見一直・熊谷直盛等の九州勢6910人を配備した。豊臣秀頼を護る『大坂留守居』には、秀頼馬廻や前田玄以・増田長盛等4万2400人を配置している・三成等の8月初旬の計画では、家康軍を尾張から美濃を通り加賀・越前に至る防衛線で迎撃しようとしていたことが判る」と。
 鳥津氏は、行長が大垣城に入城したのは8月中旬頃と推定されていました。その典拠は、9月朔日付の浅野長政宛の徳川家康書状です。三成が大垣城に入ったのは、8月11日ですから、行長も程なくして入ったことになります。
 その後の行長の動向ですが、三成・秀家・義弘と連名で、8月27日に「はやしむら」宛てに、9月5日に「あかさかさいゑんじ」宛てに、それぞれ禁制を発給しています。9月15日、関ケ原合戦が行われ、行長は伊吹山に敗走。19日に竹中重門の手により捕縛(同日付徳川家康朱印状)、10月1日、三成・恵瓊とともに京都六条川原にて刑死(『言経卿記』など)。
 「行長はなぜ西軍だったのか」という問題に対しては、行長は豊臣政権によって偉くなった人だという理由が挙げられていました。これは三成も同様でした。
 この点については、「イエズス会日本報告集」の宣教師の言葉が挙げられていました。
 「(行長と三成について)両名は非常な勇気と知略に富み、太閤様から賜った大いなる恩義を感じていた。太閤様は、存命中、この両人に対して深い愛情を抱いていたし、両者が大領主になったのも太閤様のおかげであったからである。(後略)」と。
 

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