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zoom RSS 石田三成の実像1705  シンポジウム「西軍の関ケ原合戦」11 三成の再評価

<<   作成日時 : 2016/08/27 10:05   >>

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 11日に長浜で行われたシンポジウム「西軍の関ケ原合戦」で、谷口央氏は関ヶ原の戦いにおいて、福島正則がキャスティングボードを握っていると指摘されていました。家康は正則と池田輝政をセットにし、黒田長政・藤堂高虎を後につけ、またそれぞれの城に番衆を置き、負けた場合を想定していたことも明らかにされていました。
 家康の着実さ、不安ぶりが伝わってきますが、西軍ももしもの場合を想定して、三成が佐和山に戻って、いろいろと手配したのではないでしょうか。
 関ヶ原が戦場になったことについて、外岡慎一郎氏は三成ら西軍が松尾山に輝元に入ってもらおうと思っていたのに、そこに小早川秀秋が入ったのが三成にとっての誤算だったと述べていました。こういうの秀秋の松尾山進駐が、秀秋の裏切りに備えるために関ヶ原に移動したということは、かねてからの中井俊一郎の見解であり、最近はこういう見解が広く受け入れられている印象を持ちました。また外岡氏は家康が正則を先陣で戦わせて、裏切らないようにさせたということも述べ、家康の慎重さを谷口氏に続いて指摘されていました。
 鳥津氏は家康が関ヶ原に入り込んだのはばくちだとだと述べていましたが、確かに陣形から見る限り家康が不利だったということは、拙ブログ記事でも触れたように、谷口氏も指摘していました。
 西軍の統率者が誰だったかということについては、、谷口氏は家格的には宇喜多秀家だが、内部分裂しており求心力は弱く、島津は数が少なく、消去法で三成ということになるものの、指示系統は弱いと述べていました。もっとも、軍略を立てたのは三成ということも指摘されていました。
 三成の評価については、鳥津氏は三成には豊臣政権を真剣に考えてきた自負と責任があり、政権の中心的な人物だったと言い、外岡氏は三成は戦略室長ともいうべき存在であり、秀吉がもう10年生きておれば、三成の国家構想が実現できたのではと述べていました。確かに10年経てば、秀頼は16歳になっていましたから、後継者としての地位が確立できたでしょうが、逆に朝鮮出兵が長引いたはずですから、武将や民の疲弊はもっとひどくなっていたはずですから、政権は崩壊していたかもしれません。三成の国家構想が実現するためには、朝鮮からの撤兵は欠かせぬものだったと私は見ています。
 谷口氏はこれだけの大軍を率いた三成を再評価すべきだし、江戸時代から戦前までの歴史家は勝者の論理で三成という人物を歪めて捉えてきたと指摘されていましたが、これには全くの同感です。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)のでは、その歪められてきた三成の姿を正そうとするべく記したものですし、関ヶ原の戦いでも19万石の三成が、250万石の大大名の家康に敢えて挑んだ勇気についても述べました。
 

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